おっさんの街歩き(忠敬に憧れて)

首都圏周辺の見て歩きや気になった本やドラマなどについて語ります

2021-11-01から1ヶ月間の記事一覧

一心不蘭、百花繚蘭4

その時の福沢の受けた感銘は、明治二十三年「蘭学事始」の再版(最初に明治二年に桜の木版で出版)の際の序文に表されています。その中の一部を原文のまま紹介します。 (明和八年三月五日蘭化先生の宅にて始めてターフルアナトミアの書に打向ひ、艫舵()な…

一心不蘭、百花繚蘭3

「蘭学事始」は文化十二年(1815)の玄白八十三歳の時に、蘭学が芽生えた時期からの回想を綴って弟子の大槻玄沢に渡した手記です。その前年にはすでに書き終わっていたようですが、玄沢に校訂してもらい完成させました。原本と写本の二冊と、それを更に筆写…

一心不蘭、百花繚蘭2

地下鉄東西線神楽坂駅の南西200Mくらいのところに、新宿区立矢来公園というこじんまりとした公園があります。このあたりの地名が「矢来町」というのですが、これはこの公園のある場所に、小浜藩酒井家の下屋敷があり、屋敷の周囲に竹矢来が巡らされていたい…

一心不蘭、百花繚蘭

田沼意次~松平定信~化政文化という流れとともに、蘭学は拡がっていったわけですが、その立役者が「解体新書」であることは誰しもが認めるところかと思います。 「蘭学こと(ば)始め」の中でその翻訳作業にういて触れましたが、腑分けを見た帰りに翻訳を思…

蘭世の漢友6

江漢が画業からの引退宣言と書画の会を開催したのが文化四年(1807)のこと。齢六十を越え気力が劣えたので、閑居するにあたり記念の書画会を開催するという通知を知人達に配布しました。がその会の後も変わらず画を描き続けています。 更に翌年、数えで六十…

蘭世の漢友5

江漢が最初に銅版画を発表したのが、天明三年(1783)。「天明」というと、日本史で思い浮かぶのが「天明の大飢饉」です。天明三年から八年にかけて東北地方を中心に発生し、農村に壊滅的な打撃を与えました。天明三年の火山噴火(岩木山・浅間山)によって…

蘭世の漢友4

該当する絵画を見ないと判りにくいと思いますので、文化遺産オンラインの当該ページのリンク先を貼っておきます。 bunka.nii.ac.jp銅版筆彩とありますが、当時は浮世絵の多色刷り(錦絵)の初期の時代(創始したのが江漢の師匠であった鈴木春信ですが)で、…

蘭世の漢友3

司馬江漢は前野良沢の弟子となり、オランダ語を学ぼうとしましたが、なにぶん絵画など他の分野に興味がが散ってしまっていて、ものにならなかったようです。自分の版画にもアルファベットを書き加えていますが、実際は綴りが間違っていたりしています。 そう…

蘭世の漢友2

前回写真で紹介した司馬江漢の墓の案内板には、本名が安藤吉次郎であると書かれています。また、墓石には「江漢司馬峻の墓」と彫られています。改名して「司馬峻」を名乗りましたが、「江漢」というのは号である、とも書かれています。 司馬江漢の墓 案内板 …

蘭世の漢友

解体新書の図を担当した小田野直武について、以前に触れました。源内の刃傷事件が起き、投獄された直後、直武は拝命していた「銅山方産物吟味役」の役を解任されただけでなく、「遠慮謹慎」の刑罰を言い渡され、角館に帰ることとなります。この刃傷事件に秋…

蘭学こと(ば)始め9

奉行所に出頭した源内は、小伝馬町の牢屋に入れられますが、ひと月ほどの後、牢内で病死します。先に紹介した『聞まゝの記』の話によると、牢の中で破傷風に罹ったのが原因といいます。この他にも人を殺めてしまった自責の念にかられて絶食⇒餓死、という説も…

蘭学こと(ば)始め8

この事件の詳細については、世の中を賑わせた割に、同時代に詳細を記したものがなく、不明な点が多いとさますが、ここでは、最もよく知られている話を紹介します。 彼の出身地、高松藩の家老であった木村黙老が遺した『聞まゝの記』で紹介しているものです。…

蘭学こと(ば)始め7

平賀源内は、各地の鉱山事業や、製鉄に必要となる木炭製造の事業を手掛けますが、相次いで失敗、陶器など工芸品の製造も中途半端に終わるなど、起業家としては成功することはありませんでした。現在であれば、アイデァに対して投資する資本家が名乗り出たか…

蘭学こと(ば)始め6

源内が秋田藩角館を訪れた際、宿にあった屏風絵を見て感心し、その作者が直武だったと言われています。このとき源内は45歳、一方の直武はまだ25歳でした。秋田で源内から洋画を学びますが、源内が江戸に帰るのととほぼ同時に、直武は藩主佐竹義敦(曙山)か…

蘭学こと(ば)始め5

解体新書の翻訳が始められたのが明和八年(1771)、ダイジェスト版である「解体約図」の出版が安永2年(1773)です。この前後、平賀源内はどこで何をしていたかというと、まさに日本各地を点々としていました。年ごとの多種多様な活躍と行動をたどっていきま…

蘭学こと(ば)始め4

明和八年(1771)三月四日、骨ヶ原(小塚原)の刑場で腑分けを見学し、その興奮冷めやらず、翌日からオランダ書「ターヘル・アナトミア」の翻訳に立ち向かっていく良沢らの前に、言葉の壁が立ちはだかります。なにしろ、良沢が理解しているオランダ語の単語…

蘭学こと(ば)始め3

青木昆陽に学び、長崎で通詞から若干のオランダ語を学んだ良沢は、『ターヘル・アナトミア』を開きながら、聞き覚えた単語を披露します。「この部分はロングといって 肺のこと、こちらはハルトといって心臓・・・」皆、これまで中国漢方の人体図とは全く違っ…

蘭学こと(ば)始め2

ちょうど同じころ、カピタン(オランダ商館長)江戸参府の際の宿泊地、長崎屋を訪問した中川順庵は、そこで『ターヘル・アナトミア』および『カスパリュス・アナトミア(カスパル解体書)』を見せられます。希望者がいれば、これを譲ろうと言われ、この2冊を…

蘭学こと(ば)始め

ここで、源内のことはちょっと置いて、蘭学の始まりについて考えてみます。 ご存知の通り、江戸時代の日本は中国(明~清)・朝鮮(李氏)・オランダ以外の国とは交流がありませんでした。最初は貿易による交流のみでした。が、八代将軍吉宗の時代、将軍自身…

蘭学ちょっと始め5

杉田玄白は、後に源内が獄死した時に、友人として葬儀を執り行っただけでなく、彼の死を悼んで、一周忌に追悼の碑文を書いたことでも知られています。 平賀源内の墓の横に建つ石碑 裏面に杉田玄白の碑銘が彫られているそうです 当時、オランダ人は毎春、長崎…