2024-10-01から1ヶ月間の記事一覧
和学講談所の話に続くところですが、本日恵比寿の「温故学会」を訪れ、「群書類従」の版木17,244枚が保存されている倉庫を見せていただきました。版木は表裏共に文字が彫られているので、その倍の面が印刷に使用されるわけです。群書類従666冊の版木が全てこ…
「群書類従」を開いたページを見ると、文字が整然と並んでいる印象を受けます。右のページの最終行が半分隠れていますが、左右のページの行数はそれぞれ10行となっています。縦の文字は20文字。(一部異なるものもあり) 群書類従見開き 左右のページの端 折…
版木に使われる樹木ですが、どんな種類でも良いというものではありません。木目が揃ったものでないと彫りにくいですし、変形しやすい木材も版木として不適格です。 一般に朴(ほお)や桂(かつら)、山桜などが適しているといわれます。 山桜=ホンザクラ と…
現在はデジタル製版が出版界を席巻していますが、私が小中学生だった昭和五十年代は、街のあちこちに印刷工場がありました。金属の活字を現行通りに並べるのを組版(くみはん)というのですが、江戸時代の出版物は組版は行わず、一枚の木に筆写された文字を…
水戸徳川家での講義の後、藩主治保は保己一をもてなそうとして 「何か食べたいものはあるか」 と尋ねたところ、保己一はこう答えました。 「里芋が食べとうございます」 治保は山盛りの里芋を保己一の前に出すと、満足げに口に運んでいきます。治保はそれを…
当時の宗教観は、前世の因果が現世にあらわれる、つまり現世に困難に遭うのは前世の悪行に由来するというものでした。保己一の障がいも前世の因縁であるということで、水戸藩の反対派の考え方は、今でこそ非常識ですが当時は普通の考え方だったといえるでし…
雨富検校の没年は天明四年(1784)ですが、生年が明らかではないためいくつで亡くなったのかはわかっていません。さて、過去の昇進の際に費用の一部を用立ててくれた雨富検校ですが、亡くなる直前に保己一を枕元に呼びました。 雨富検校は、「群書類従」作成…
保己一が「検校」の位に上がったのが38歳のこと。「勾当」の位に上がるのに200両かかった(半分は師匠の雨富検校が用立て)話については前に紹介しましたが、今回の昇進の際の費用については明らかではありません。ただこの前年(天明二年:1782)に紀伊徳川…
安永八年(1779)正月、保己一は京都北野天満宮に参拝、「群書類従」の出版を誓いました。「各地に一巻、二巻と散らばっている貴重な書物を取り集めて、後世に学ぶ人たちの助けとなろう」という思いでした。(「北野天満宮」と書かれた資料も、単に「天満宮…
2人の弟子を呼んだ宗固は言いました。 汝たちはその年齢にしては、他の人より書を読み歌を詠むことに優れている。この先その道の専門家となっていくであろう。しかし、人には得意な分野がある。 そのように前置きを述べた後、更に学びを深めるためそれぞれの…
盲人の組織である当道座には細かな組織階級があることは以前にご紹介しました。衆分より上の階級(官位)への昇進にあたっては、幕府はお金を出せば検校までの位は与えるという「官金」の制度を設けています。このあたりは、武士(旗本)の位(旗本株)を商…
保木野一(千弥)の生涯で、最も幸運だったことは、雨富検校という師匠と巡り合ったことのように思います。三年間の勉学を許した逸話もそうですが、雨富検校はある仕事を保木野一に命じます。 人が大事を成し遂げるには、病が多くては叶わない。病のある人が…
このあたり、この稿の6のあたりと話が被っています。間が空いたのでその点ご容赦ください。 師匠は千弥にこう言います。 賊と博以外ではやりたいこおは何をしても構わない。三年間私がお前を養うが、三年経っても見込みが立たなければ、国元へ帰す。 この言…
千弥(保己一)の不器用さを伝える逸話はいくつかあって、 師匠の雨富検校から三弦(琵琶に代わって用いられていた楽器で、三味線とは異なるものの、イメージはそんな感じです)を習ったものの、三年経っても一曲も覚え鳴らすことができなかったと伝わります…
間が空いてずいぶんと間延びしてしまいました。9月2回目の三連休に左足にばい菌が入ったらしく、37℃半ばの発熱に加え(普段平熱が35℃台なので結構辛い状態でした)ふくらはぎが普段の1.5倍くらいに腫れあがってしまいました。今にして思えば連休の間に救急医…