おっさんの街歩き(忠敬に憧れて)

首都圏周辺の見て歩きや気になった本やドラマなどについて語ります

おそれ大奥ことながら5

前に触れたように、斬りつけられた意知は、事後の治療処置のまずさもあって8日後の4月2日に亡くなり、翌日佐野は切腹を命じられ自害しました。与えた傷が治らぬよう、獣の血とトリカブトの毒(附子)を刃に塗っていたといいますから、佐野は周到に用意を行っていたわけです。

意知の葬儀が行われますが、大飢饉の後の物価高騰で庶民は田沼父子に相当の怒りを覚えていたのでしょう、葬列には石が投げられ罵声を浴びせられるという散々な状況でした。一方佐野の方はというと、切腹後にそれまで高騰していた米価が偶然下がったことで、民衆は佐野を「世直し大明神」と称え葬られた徳本寺(とくほんじ)には参拝者が押しかけるという真逆のことになりました。

佐野の葬られた西浅草の徳本寺(神田から移転 最寄駅:田原町

幕府は寺の門を閉じ参拝をやめさせようとしましたが、夜中に隠れて参拝するものさえいたといいます。

さて、佐野が何故意知殺害を企てたのか。幕府の公式記録『徳川実記』では佐野の狂乱の末の凶行であったと結論付けています。佐野が切腹した後の4月17日、大目付・目付より、「佐野は狂信して犯行に及んだ」ことと「周囲の同僚・部下の様子におかしなところがあれば自宅で治療させるよう」に通達を発しています。

徳本寺に掲示されている佐野善左衛門政言墓の案内板

が、狂乱の行為にしては用意が周到すぎて不自然です。佐野は刃傷に及んだ際、懐中に「七箇条の口上書」を携えていたといいます。

口上書には

・佐野家の家系図を貸したが返さなかった

・自分の領地にあった「佐野大明神」が田沼家の家臣によって「田沼大明神」に名前を変えて横領した

・田沼家が佐野家の家来筋にあたることから、同じ祖先を持つよしみで出世を目論んで総額620両相当の金品を贈ったが出世は適わず、逆に疎まれ金品はだまし取られた

など、私怨と思える理由が述べられていたものの、「乱心」として処理されました。どうも「うやむや」にされた感の強い事件ですが、次回は「この事件で得をしたのは誰か」という観点で事件を見ていきたいと思います。