おっさんの街歩き(忠敬に憧れて)

首都圏周辺の見て歩きや気になった本やドラマなどについて語ります

おそれ大奥ことながら6

田沼親子は父意次が老中、息子の意知が若年寄という幕府の重職に就いていましたが、親子でこうした役職にあることは通常はないことです。というのはこうした役職は譜代大名から選ばれるのが通例ですが、意次は現役の大名であり、意知は世子ではあるものの、大名ではないためこうした役職に就くことは通常はありません。

江戸幕府の歴史の中でも同様の例は一件あります。五代将軍綱吉の時代、老中大久保忠朝(おおくぼ ただとも)の子、忠増(ただます)が若年寄になった事例で、それくらい稀有なことでもあり、世間では田沼意次が権力を私物化したと批判を浴びたわけです。

さて、この事件の黒幕として、白河藩松平定信の名前が最初に挙げられます。重商主義をとる田沼政治への批判者であり、「反田沼派」の筆頭でもあります。

深川(江東区白河)霊厳寺 にある松平定信の墓(格子の間から撮影)

将軍家治の養子に行く話もあったにもかかわらず、白河松平家に養子に出されたのが田沼の謀略によるものだった、と恨んでいたでしょうから動機はあります。

ここで、将軍家治の継嗣に関わるもう一つの事件をご紹介します。

家治には家基(いえもと)という実子がおり、当然何もなければ十一代将軍はこの家基になるはずでした。しかし、安永八年(1779)2月21日、家基は供の者を連れて江戸近郊の新井宿へ鷹狩りに出掛け、その帰りに立ち寄った品川の東海寺で小休止しました。

北品川にある東海寺 世尊殿

そこで急に体調の不良を訴え(腹痛であったといわれます)、すぐさま江戸城西の丸に戻って治療を行いましたが、3日後に死亡しています。自らの後継ぎを失った父・家治は、食事も喉を通らなくなるほど嘆き悲しんだといいます。鷹狩りに出かけるほど元気な人物の急死ということで、いくつもの暗殺説が生まれています。主なものは、田沼意次によるもの、とする説と、一橋治済(ひとつばし はるさだ 「大奥」では仲間由紀恵さんの「怪演」が印象的でした)によるものという説です。次回はこの二つの暗殺説をご紹介していきます。