おっさんの街歩き(忠敬に憧れて)

首都圏周辺の見て歩きや気になった本やドラマなどについて語ります

おそれ大奥ことながら3

その事件とは、天明三年(1783)の「浅間山の大噴火」(「天明の大噴火」「天明の浅間焼け)と、それによって引き起こされた「天明の大飢饉」です。これらについてはすでに昨年5月にこのブログ「浅間浅間よ朝陽が昇る」「混ぜるな飢饉、負けるな飢饉」でも紹介しています。

天明の浅間焼け」の溶岩噴出でできた「鬼押出し

定信が藩主となった白河藩は、一人の餓死者も出さずにこの困難を乗り切り、名君として世に知られるようになりますが、逆に田沼意次が批判の矢面にさらされることになりました。というのも、田沼時代に推し進められた重商主義によって貨幣経済への転換を図った結果、農村では田畑を捨てて都市部への人口流入が起き、農村の荒廃と都市の治安悪化を招いたことでこの飢饉の被害を大きくしたと考えられたからです。

田沼の重商主義の批判者であった定信は「反田沼派」の筆頭に押し出されていきますが、政権を担当する「田沼派」はいまだ大きな力を持っていました。その権力を大きくそぎ落とす大事件が、翌天明四年(1784)の3月24日に起こります。

意次の嫡子で若年寄の重職にあった田沼意知(おきとも)が、江戸城内で旗本の佐野政言(さの まさこと)に切りつけられます。致命傷には至らなかったにもかかわらず、医師がその処置に対応できず8日後に亡くなりました。享年36。下手人の佐野も小伝馬町牢屋敷内の「揚げ屋敷」において切腹を命じられ自害しています。

千代田区 大妻女子大のあたりにある 佐野善左衛門(政言のこと)宅跡

この事件は「大奥」のコミックスではしっかり描かれているものの、残念ながらドラマでは省かれてしまいました。(回数が限られているので仕方がないですが・・)次回はこの事件の詳細に触れながら、田沼失脚とその後をご紹介していきたいと思います。

浅間浅間よ朝陽が登る - おっさんの街歩き(忠敬に憧れて) (hatenablog.com)

混ぜるな飢饉!負けるな飢饉! - おっさんの街歩き(忠敬に憧れて) (hatenablog.com)