綱吉が甥の綱豊に家宣の名を与え、その家宣が江戸城西の丸(引退した将軍や次の将軍候補が住みました)に入ったのが宝永元年(1704)の年の瀬12月のこと。改名にあたって養子にもしており、ここに綱豊(家宣)こそが将軍の後継者であると決定します。 「大奥…
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