おっさんの街歩き(忠敬に憧れて)

首都圏周辺の見て歩きや気になった本やドラマなどについて語ります

煩悩の犬、大江戸も去らず3

綱吉が甥の綱豊に家宣の名を与え、その家宣が江戸城西の丸(引退した将軍や次の将軍候補が住みました)に入ったのが宝永元年(1704)の年の瀬12月のこと。改名にあたって養子にもしており、ここに綱豊(家宣)こそが将軍の後継者であると決定します。

「大奥」では綱吉が後継を告げた後、桂昌院が追いすがり、上衣(打掛けでしょうか)がするっと離れた瞬間、束縛から解き放たれた、晴れやかな表情を浮かべます。そしてその足で右衛門佐のもとへ向かう、ここのところは、直後の右衛門佐の突然の死と相まって心に残るシーンです。(ちなみに、史実での右衛門佐の死はここから2年後のことでした)

増上寺 改葬され現在はこの合祀塔に祀られていると思われます

綱吉にその決断をさせた事態とは、この約八か月前に起こりました。愛娘鶴姫が疱瘡のため僅か27歳(満年齢)でこの世を去ったのです。これにより綱紀を後継に推す理由の一つが失われ、その年の内の家宣後継指名へとつながったとみるのが妥当でしょう。
なお、鶴姫に先立たれた紀州藩主綱教も、翌年5月に39歳(満年齢)で鶴姫の後を追うようにこの世を去ります。紀州藩には不幸が続き、3月後には隠居した前藩主、父の光貞が薨去します。さらに次の藩主である弟頼職(よりもと)は父の臨終に間に合うよう、江戸から紀州への強行軍がたたったものか、病を得たかと思うと翌月に亡くなり(満年齢で26歳)ました。

紀州藩では前年の鶴姫だけでなく、同じ年の中で3人の歴代藩主を失う事態が発生したことになります。これにより、紀州藩を継ぐことになったのが綱教の末弟、頼方(よりかた)ですが、綱吉から偏諱(へんき)を賜ります。つまり「吉」の一字を貰い、「吉宗」と改名したのでした。

ちなみに綱吉の母、桂昌院もこの年の6月、綱教の死の約一か月後のことです。嫌っていた甲府(綱豊=家宣)が後継になったのを苦々しく思いながらの死だったでしょうか。(桂昌院も現在は上の写真、合祀塔に祀られているようです)

綱吉が亡くなったのは宝永六年(1709)1月なので、3年半くらい先のことですが、次回はこの話を。