おっさんの街歩き(忠敬に憧れて)

首都圏周辺の見て歩きや気になった本やドラマなどについて語ります

九月に花咲く悲願噺8

5日間の寄席、初日の一番、桂べかこ(現3代目桂南光師匠)さんが「東の旅」を演じています。この噺は「ようよう上がりました私が初席一番叟で御座います」から始まり、小拍子と張扇で見台を叩きリズムを取りながら進めていくので、口切りのネタの定番といえます。

べかこさんが桂枝雀師匠(当時小米)に入門したのが昭和四十五年(1970)3月のことですから、入門2年足らずで前座とはいえ一番バッターを務めたわけです。

昭和五十六年(1981)の落語会ポスター(ワッハ上方

この初日には、上のポスターにも写真のある桂三枝(現6代目桂文枝師匠)さんも出演されていました。

初日に中入り前の口上で、松鶴会長が「たとえ五日にしろ、噺の定席が出来ましてこんな嬉しいことは御座いません。何卒益々この定席をば、盛り立てていただきますのは我々だけの力ではやっていけませんのです。皆さん方の双肩にかかっているようなわけで。日本の国を良くするか、上方落語界を発展さすか、どうぞ皆さん方、尚一層ご支援下さいますよう、隅から隅までズィーッとお願い奉りまする~」と声を上げると観客一同は歓喜喝采して応じました。

寄席の終演後、打ち上げの席で松鶴会長は若手のの噺家に一人一人酒を注いで回り、「この島之内5日間を10日に、10日を半月に、半月を一カ月毎日公演できるようにせなアカンで」「やっとここまで来れた。今はまだこんな状況やけど、お前らの時代には必ず365日出来る落語の寄席をこしらえてくれ。」とおっしゃったとか。

この教会での寄席公演は2年で終わってしまい、心斎橋のブラザーミシンビル8階、船場スポーツプラザ、ダイエー京橋店等々を転々としましたが、名前だけは「島之内寄席」を継承していきました。その間昭和四十八年(1973)1月、上方落語協会主催2つ目の定席「千里繁昌亭」が千里セルシーホールを会場として開席しています。が、これも月2日間の興行で、365日には程遠い状況でした。

落語のブームは来るものの、上方落語の苦闘が続きます。