おっさんの街歩き(忠敬に憧れて)

首都圏周辺の見て歩きや気になった本やドラマなどについて語ります

九月に花咲く悲願噺7

引続き当時の新聞記事から。松鶴会長自ら下足番(お客さんの靴を預って下足札を渡す)をされている写真が載せられ、下足札を渡されたファンが

「記念に下足札を分けてください」すかさず会長は

「その代わり、クツを置いていきなはれ」の返し。これには周囲も大笑い。

2月21日からの5日間の興行で、21日が米朝師、2日目が小文枝師、以降橘ノ圓都(たちばなのえんと)師、松鶴師、最終日が春団治師がトリ(主任)を務めました。四天王は何度も名前が出ていますが、橘ノ圓都師匠については初めて紹介します。

戦後すぐ開設された「戎橋松竹」のポスター(ワッハ上方

上のポスターにある「戎橋松竹」は昭和22年9月11日に開場した演芸場です。定員は「250席ほど」(米朝師談)。右から5番目に円都(ポスターまま)師匠の名前が見え、その後に「松鶴」の名も見えますが、これは先代の5代目(=6代目の父)にあたります。昭和初期に一度落語家を廃業、指物大工に戻り(元々の家業でした)ましたが、戦後(昭和二十七年頃)、二代目春團治とその後妻さんにあたる河本寿栄さん(春團治のマネージャー役のされていた)が神戸の六甲道の住まいを訪ね復帰を打診し、落語家に復帰した、という経歴の持ち主です。

その訪問の際、「高座着だけは取ってあるし、復帰もしたいが、入れ歯がガタガタでしゃべりができない」という圓都師に寿栄さんが傍にあった「にかわ」(動物の皮や骨から作る接着剤 大工さんの家なので普通に置かれていたのでしょう)を見つけ、冗談のつもりで「それで入れ歯をくっつけはったら」と言った。圓都は大笑いしたが、後で和紙をにかわに浸してやってみると、うまく入れ歯がくっつき、高座への復帰がかなったという逸話も残されています。復帰当時師匠は64歳。今なら入れ歯ががたつく年齢ではないですが、当時なら冗談でなくあり得る話です。

戦前の寄席のポスター こちらにも「円都」の名が 一時引退前のもの

戦前活躍した落語家が亡くなっていく中、後進の指導にも尽力され、島之内寄席開設の際(89歳)にも主任を務めています。この3ヶ月半後、6月2日に京都府立文化芸術会館で行なわれた「橘ノ圓都桂米朝二人会」が最後の舞台となりました。多くの古い噺をネタとしていた噺家で、米朝師の話のマクラにも「この噺は圓都師匠から教わった」旨のことがたまに出てきます。その功績から、平成十四年(2002)上方芸能の殿堂入りを果たしました。

最晩年に実現した定席、圓都師匠はどんな気持ちで高座に立たれていたのでしょう。「島之内寄席」の話、続きます。