おっさんの街歩き(忠敬に憧れて)

首都圏周辺の見て歩きや気になった本やドラマなどについて語ります

一橋の貉(むじな)4

安永八年(1779)徳川家基が鷹狩りの帰りの東海寺で体調不良を訴え、3日後に江戸城内で死亡しました。享年18、今の満年齢でいうと16歳でこの世を去ったわけです。

江戸時代後期の寿命については、今のような戸籍や統計がないために正確なところはわからないものの、30歳半ばだったといわれています。が、この平均寿命、死亡年齢が0歳と100歳の人が半々なら50歳ということですが、江戸時代(昭和初期まで)は出生後や幼少期でこの世を去ることが多かったので、引きずられて低くなっています。

今と同じように80,90歳まで生きた人も少なくなく、ちなみに60歳の人の平均余命は14年だったといわれています。ちなみに「七五三」も子供がその年齢まで成長したことを神様に報告し、感謝を伝え、これからの健やかな成長を祈願する行事です。

笠間稲荷神社 菊祭りと七五三

余談が長くなりましたが、今でいうハイティーンの年頃に亡くなるということは、今と同じで、病弱で何とか生きながらえてきたようなケースを除き、それほど頻繁に起こることではありませんでした。(伝染病含む病気や事故、自殺などを除く)しかも、鷹狩りに出るほど元気だった若者、しかも次期将軍の急死は当然のことながら現在に至るまで様々な憶測・推理を呼んでいます。

田沼意次が薦めた医師が処方した薬を服用してから容体が急変したともいわれ、意次による暗殺も疑われていますが、急死の結果一番得をした、ということであれば、実子豊千代を将軍家治の養子とし、家治死後、将軍家斉の実父として権勢をふるった一橋治済が怪しくなります。

治済の墓であったのを改葬し合祀墓としました(谷中霊園一橋家墓所内)

さらには家基急死の5年後、天明四年(1784)すでにご紹介した田沼意知江戸城内での殺害事件までも併ると、一連の事件の陰に治済が暗躍していた、という推理がもっともらしく感じられます。

そのあたりを踏まえて「大奥」での仲間由紀恵さんの怪演を見直すと、まさに怪演でうすら寒く感じるほどでした。

次回も治済の話が続きます。