おっさんの街歩き(忠敬に憧れて)

首都圏周辺の見て歩きや気になった本やドラマなどについて語ります

一橋の貉(むじな)3

家格を上げるために、徳川将軍の一族を養子に迎えるという行為を行ったのは松山藩白河藩だけではありません。一橋治済の2人の兄が相次いで(先に養子になった長兄の重昌→弟:重富)福井松平藩に養子に行っていますが、これによって福井藩は過去にいったん下げられた家格を回復しています。

実際、一橋治済はこの定信の養子縁組について、「白河藩主であった定邦が家格の上昇を目論んで、老中田沼意次に働きかけて田安家の反対を押しきって進めた」話であると尾張水戸徳川家の当主に語っています。

谷中霊園にある一橋家墓所

個人的には、そこに「定信に田家をを継がせまい」とするする意次や治済の意思が反映されていたかというのは余り信憑性があるとは言えないと考えています。おそらく御三卿の子供たちは、望むと望まないとに関わらず他家へ養子に出してしまう、というのが吉宗・家重が遺志であり、意次はそれに従って粛々と縁組を進めていった、というのが真相ではないか、と思われます。もちろん、養子縁組を進めるにあたって、白河藩主松平定邦が各方面に金品を回し、田沼がそれを受け取った、ということはあり得ると思いますが、恣意的に定信排除の意向があったとは思えない、ということです。

そもそも、田沼と治済が結託して定信を追い落とした、という説を世に広めたのは、渋沢栄一の著した「楽翁公伝」からでした。(「楽翁」とは松平定信の号です)

渋沢栄一(帝国ホテルの百年展より)

渋沢自身も「推理だ」と明言したうえで発表した話がいつの間にかまことしやかに真実のように広まってしまったようです。

まあ、定信の件はそれとして、次に起こった家基の急死、これについてはどうだったのでしょうか。それについては次回で。