松平定信が田沼意次失脚の後、老中主座・将軍補佐となったのが天明七年(1787)のこと。それまで単なる白河藩主で何の役にも付いていませんでしたが、老中、しかも首座に抜擢されました。この時、定信はまだ30歳でした。
江戸時代を通じて、老中就任の平均年齢は45歳くらいだそうで、それより一回り以上若く、しかも無役からというところ、御三家、一橋家など反田沼派が総力を挙げて後押しした感があります。
さて、松平定信といえば、「寛政の改革」を行ったことでも知られています。ここでは改革の内容には触れませんが、この改革、わずか六年で幕を閉じます。
老中就任時には、その若さと清廉なところをもてはやされ、
田や沼や汚れた御世を改めて清らに住める白河の水
と狂歌(落首)に詠まれ歓迎されました。しかし、あまりに厳しい倹約令や風紀の取締りに庶民は息苦しく感じたのでしょう、
白河の清きに魚の住みかねて元の濁りの田沼恋しき
と、前政権(田沼時代)を懐かしむ狂歌(落首)が詠まれます。また、武士には武芸と学問をうるさいくらいに奨励したのをうるさがられ、
世の中に 蚊ほどうるさき ものはなし ぶんぶといふて 夜も寝られず
とも詠まれました。
民主主義の世の中ではないので、庶民からの人気がなくとも政権は維持できるはずなのですが、寛政五年(1793)に老中を解任されたのは、「一橋治済を大御所に」という治済・家斉親子の要請を断り、二人との関係が悪化したことも、老中解任に大きく影響したといわれます。
実はこの大御所要請と同じようなことが、同じ時期の京都の朝廷においても持ち上がっていました。次回はその「尊号一件」についてご紹介します。
おそれ大奥ことながら6 - おっさんの街歩き(忠敬に憧れて) (hatenablog.com)