おっさんの街歩き(忠敬に憧れて)

首都圏周辺の見て歩きや気になった本やドラマなどについて語ります

煮るなり焼くなり徳川家斉

将軍候補の家基急死の時点で、御三卿はどうなっていたかというと、

田安家・・2代目当主の治察(はるさと)が安永三年(1774)⇒家基の死の5年前にすでに死去。妻子がおらず、田安邸には伊予藩主の松平定邦、ほぼ半年前に白河藩に養子縁組の決まった松平定信という二人の弟が一緒に暮らしていました。が、吉宗の「御三卿の当主に子供のいない場合は相続は認められない」という意向に基づき、当主のいない明屋形(あきやかた)となっていました。

江戸城石垣上の紅葉(文章とは関係はありません)

一橋家・・2代目当主が治済です。長男豊千代(のちの将軍家斉)をはじめ、子宝に恵まれていました。

清水家・・将軍家治の弟、重好(しげよし)が初代当主として始まった家です。重好は三十半ばでしたが実子はありませんでした。

家治との血縁関係の濃さでいえば重好が次の将軍になってもおかしくなかったのですが、そうはなりませんでした。壮年であったにもかかわらず、実子がいないことで敬遠されたのかも知れません。

清水徳川家の屋敷は田安家の隣(向かい)にありました

結果として天明元年(1781)に治済の長男豊千代が家治の養子となりました。満年齢で言うと7歳にあたります。

それ以降の事件(イベント)を時系列に並べると

天明三年(1783)浅間山が噴火、天明の大飢饉発生(発生は前年という説も 飢饉は天明八年まで続く)

天明四年(1784)田沼意次の嫡子、意知が江戸城内で佐野政言により殺害される

天明六年(1786)将軍家治死去 田沼意次、老中を罷免される(失脚)

天明七年(1787)家斉、第11代将軍となる 松平定信老中筆頭・将軍補佐に任ぜられる

となっていき、養子が成立した後、一橋治済が田沼との関係に距離を置き始めたように思われます。

「大奥」では家治が奥医師から砒素を盛られていた描写がありました。次回はこの将軍交代と治済・家斉親子の話に進んでいきます。