おっさんの街歩き(忠敬に憧れて)

首都圏周辺の見て歩きや気になった本やドラマなどについて語ります

一橋の貉

松平定信が出た田安徳川家、治済が2代当主を務めた一橋徳川家徳川重好(しげよし:九代将軍、家重の次男)が当主の清水徳川家、この3つを御三卿(ごさんきょう)といいます。首都高速の一橋料金所のあたりにちょうど「一橋御門」があり、その内側に屋敷があったので「一橋徳川家」と呼ばれるようになります。

一橋屋敷は平川門の外、一橋門(C1の位置)の内、東側にありました

いずれも十万石という石高を有していますが、「藩」というような独立した存在ではなく、その家臣も幕府の旗本等から任命・出向者などで構成されていました。実際に一橋徳川家の家老に、田沼意次の弟(意誠:おきのぶ)や甥(意致:おきむね、意誠の子)が就任していた時期もあります。

治済は宝暦元年(1751)に徳川宗尹(むねただ:吉宗の四男)の四男として生まれました。元服した兄二人は福井藩松平家を継いでいます。(わかりにくいですが、長兄が養子に行って藩主に就いた後ほどなく亡くなったため、三兄がその養子となって次の藩主に就きました)同じ吉宗の孫である松平定信より7歳年長です。

一橋徳川家屋敷跡 案内板

さて、松平定信の白河松平家への養子縁組について、田沼意次の陰謀があったように松平定信は考えていたようですが、個人的にはこれは陰謀であったとは思えません。御三卿の男子たちが他の大名家に養子に出されるのは定信に限った話ではありません。現に治済の二人の兄も前述したように福井藩に養子にいっていますし、定信の一歳年上の異母兄、定国(さだくに)も伊予松山藩松平家に養子に出されています。

この伊予松平家と白河松平家は、いずれも「久松松平家」の一族にあたり、定信の養子の話がもちあがったのも、実はこの兄の養子縁組が機となっているのですが、それについては次回に。