おっさんの街歩き(忠敬に憧れて)

首都圏周辺の見て歩きや気になった本やドラマなどについて語ります

「櫻守」を歩く7

園との結婚した後も、弥吉は竹部のもとで桜の育成を学んでいきます。弥吉はもともと染井吉野を美しいと思い、庭に植え替える際に重宝していましたが、竹部は染井吉野をこき下ろします。

染井霊園の染井吉野 竹部はなぜ染井吉野を評価しないのでしょうか

竹部にきいてみると、これは日本の桜でも、いちばん堕落した品種で、こんな花は、昔の人はみなかったという。本当の日本の桜というものは、花だけのものではなくて、朱のさした淡みどりの葉と共に咲く、山桜、里桜が最高だった。

仁和寺に咲く里桜 花と一緒に葉が見えます

育ちも早くて、植付けもかんたんにゆく。竹部にいわせると足袋会社の足袋みたいなもので、苗木の寸法、数量をいえば、立ちどころに手に入る品だ。

中略

だいいち、あれは、花ばっかりで気品に欠けますわ。ま、山桜が正絹やとすると、染井はスフいうとこですな。土手に植えて、早うに咲かせて花見酒いうだけのものでしたら、都合のええ木ィどす。全国の九割を占めるあの染井をみて、これが日本の桜やと思われるとわたしは心外ですねや

「関山」(かんざん) 造幣局の桜で最も多く植えられているのがこの品種です

そういう竹部に影響された弥吉も園に対して桜への想いをあつく語っています。

 

公園の桜も、土手の桜も、早うに根づいて、薬につよい染井がはびこりよった。これでは、日本にほんまの桜が無うなるわな。わしは、竹部先生の下で、大事な仕事をしてンのや。桜を守る仕事をしてンのや。

 

弥吉もすっかり竹部に感化されて、二人とも、染井吉野の「手のかからなさ」「お手軽さ」に安直なものを感じ、古来の品種が駆逐されてしまうような風潮に危機感を感じていることがわかります。一方で竹部=笹部さんにとって、古来の山桜と、染井吉野の生命力を兼ね備えた新たな品種の開発が悲願となりました。

 

さて、時は太平洋戦争末期、昭和二十年三月のこと。体が小さく丙種として徴兵されなかった弥吉のもとにまで徴用の命令が下されます。この続きは次回に。