おっさんの街歩き(忠敬に憧れて)

首都圏周辺の見て歩きや気になった本やドラマなどについて語ります

「櫻守」を歩く8

向日町の弥吉のもとに送られてきたのは「白紙(しろがみ)」でした。兵隊として召集される「赤紙」とは異なり、労働力として召集する、いわゆる「勤労動員」の令状は白い紙に印刷されていたためそう呼ばれたのです。

弥吉の行先(召集される先)は「舞鶴軍需部」と 書かれていました。

海軍の軍港でもあった舞鶴 現在も赤レンガの建物が残ります

ちょうどそのころ、園が妊娠らしい兆候を示していた時期の事でしたので、心残りがありながらも、「しゃあない、国の命令やさかい」とあきらめつつ、竹部にもその旨を電話で連絡しました。その日の夕方、竹部は向日町の小舎にあらわれると「来ましたな」と言った後、次のようにアドバイスをくれました。

 

舞鶴なら、まぁ、日本の中やで、いのちを落すということはおへんわ。けど、あそこは軍港やで空襲はあるかもしれまへんな。警報が鳴ったら、穴へ入るこっとす。あんたは、わたしには大事な人やで、犬死にしてほしくない。つまり、あの要領どすわ。臨時が走ってきた時のトンネルの中や。べったり壁に腹つけてがまんするこっとす。いきりたって、人前に立つと、命を落としまっせ」

汚れようとも我慢して生きのびるように、との思いが溢れる忠告です

園に見送られ、早々に舞鶴に赴いた弥吉は、そこで連日タコ穴掘りをさせられました。意外に楽だと安心していたところ、舞鶴への手紙で園が妊娠したことを知ります。一ヶ月ほどして、伏見の輜重輓馬隊(しちょうばんばたい)への入隊命令が下されました。

いったん暇をもらい、園とトンネルをくぐって思い出の竹部山へ出かけ小舎で過ごした後、竹部に挨拶をし、伏見に行き、5月から終戦まで馬の守りばかりの辛い日々を過ごすことになります。くたくたの毎日で新聞もラジオも無縁で、この時期大阪や神戸が丸焼けになったことも知らず終戦を迎えました。

次回から、生きて終戦を迎えた弥吉の戦後の生活が始まります。