八月十八日、弥吉は腹をこわした状態で伏見の輜重輓馬隊を除隊となりました。毛布一枚と編上げ靴一足を分配され、終戦後の世間、しかも炎天下に放り出されたのです。そこからの約十日間はその体調の事を忘れてしまうくらいの目まぐるしい日々でした。
父のいる京都鶴ケ岡に挨拶のため顔を出すも何とも居心地が悪くそこを辞し、京都駅までやって来た弥吉は、駅のベンチでこれからの生活を考えこんだところで、先輩の喜七の顔が思い浮かびました。
喜七は、「何ならわしのところへきたらええがな」といい、今は竹部先生のところも大変だろうから、ここらの野菜を運んで売る、「かつぎ屋」をして暮らすよう、また園もここへ連れてきたらよい、と気安く声をかけてくれたのです。その言葉に甘えることにし、今後は園の実家のある武田尾の切畑へ向かいます。
園はまだ出産はしておらず、弥吉の話を聞き、
「この人のいわはるようにします。うちも京にいって産みとおす」
といい、二人は園の実家を後にすると、臨月の園を後ろからかかえるように満員電車に乗せ、死ぬ思いで喜七へたどりつきました。これが除隊になって四日目のことで、そこから七日目で産気づき、産院について二日目に男の子を産んでいます。
名前は喜七が一夜中考えてくれた、「槇男」(まきお)としました。
「永年植木いじってきて、何が好きやといわれたら槇のほかにはない。花の咲く樹はいくらもあるが、槇のような性質のええ樹はないやないか。弥吉ィ、わしの知るかぎりでは、虫の喰わん木ィや・・・」
世話になっている先輩のいうことである。同じ木を冠するなら、ちょっぴり桜もよぎったが、桜男では語呂も悪い、園もええ名やというので、槇男にきめている。
ここの書きぶりはちょっと読者をくすぐっているのでしょうか。次回も戦後の生活が続きます。