おっさんの街歩き(忠敬に憧れて)

首都圏周辺の見て歩きや気になった本やドラマなどについて語ります

運河向いてる 堺編・番外6

「御一新」いわゆる「明治維新」によって武士階級は没落しました。この激動を「高嶺をろしのはけしさ」にたとえ、涙を振るって、斧を持ち美しい松を切り落とし、その結果、このような変わり果てた姿となったのです、と税所は返したのでしょう。

薩摩藩士でも下級の出といってもよい(西郷もそうですが)二人が、こうした平安時代の歌や故事などを盛り込んでやりとりをしたのは意外な気もしますが、それだけ「国学」(「国学」の中には「歌学」も存在します)の素養というものが当時の武士階級には浸透していたともいえるでしょう。

「惜松碑」の案内板

「名勝をこのような無残な姿にするために幕府を倒したわけではない」と歌で戒め、税所もその非に気づいて松の伐採を中止するとともに、松の保護の意味も含めこの地を公園とし、現在に至ります。

「惜松碑」の裏面にはこの時のやりとりが記された後に

明日よりはこの事をやめさせてよ京にかへらんのちともかうもすへしとあるにやかてそをとめたりき今残りたるはまたまたかの君のたまものといひへし

とあって、この松原を残したのは大久保の功績だと伝えています。

大久保の歌により松原は守られました

この場所が公園となってから二十数年がたった明治三十二年(1899)年に、大阪府で陸軍大演習が行われた際、明治天皇は「高師浜は今どうなっているのか」と勅使を遣わし、松原の様子を見てくるよう命じます。「惜松碑」はその前年に建てられており、勅使はそこに刻まれた大久保の歌を筆記し、明治帝に示しました。

「大久保が歌を詠んだことがあるのか」と歌好きの明治帝はおどろき、かつ明治十一年に暗殺された大久保をしのんでひどく懐かしげであった。

「翔ぶが如く」には、同じ薩摩出身で宮中の御歌所長を務めていた高崎正風(たかさき せいふう)その歌を批評し、明治天皇が「豪傑の歌というのはそういうぐあいなところがいいのだ」と返すやりとりが紹介されます。その先で、このころの大久保の心情をうかがわせる描写があります。それについては次回で。