おっさんの街歩き(忠敬に憧れて)

首都圏周辺の見て歩きや気になった本やドラマなどについて語ります

言うは易く 行うは仇(かたき)3

討入りの日を決める吉良の在宅日の情報入手に奔走したと言われているのが横川勘平と大高源吾です。横川勘平は三島小一郎という名前で本所の堀部安兵衛宅に居候していましたが、ある僧侶と仲良くなります。この僧侶は吉良邸の近くで茶道の宗匠をしていました。12月のある日、僧侶からあることを頼まれます。

「吉良邸でのお茶会が開かれ、その招待を受けたのだが、私は無筆(文字が書けない)ので、代わりに返事を代筆してもらえないだろうか」そしてその招待状を見せてもらったところ、12月14日に吉良邸でお茶会が開かれる情報を入手した、というものです。

一方、大高源吾の方はというと、大阪の呉服商人脇屋新兵衛と名乗り、これも茶の湯宗匠である山田宗偏に弟子入りします。山田宗偏は吉良の茶の湯の師匠でもあり。そのルートから情報を入手しようとしたのでしょう。

茶の湯が情報入手一役買っていました

大高源吾は赤穂藩士の時代から「子葉」という雅号をもち、俳人としても知られた人物でしたから、怪しまれずに懐に入りこめたのではないでしょうか。当初そのルートを通じて入手した情報は「12月6日、吉良邸で茶会がある」というものでした。そのため12月6日に向けて、討ち入りの準備がなされており、2日の深川の会合は元々6日の討入についての打ち合わせだったと言われています。
が、その6日の茶会は吉良が将軍綱吉の側用人である柳沢吉保の別荘に招待されたことから延期となりました。
延期された茶会が14日に開催されるとの情報がもたらされたことから、14日夜を討入りの日と決めました。

前回、この深川での会合で、装備についても話し合われたとされましたが、「決算!忠臣蔵」では、めいめいが装束や装備について勝手なことを言い出すので、予算が赤字になりかけます。が「火事装束なら残っているから、それを使えばよい」となった瞬間、金額が黒字に戻り、大石はほっとした表情を見せるシーンがありました。

さて、討入りの日は決まりました。次回から討入り当日、14日のお話です。

言うは易く 行うは仇(かたき)2

12月2日に、深川八幡(現在の富岡八幡宮)前にあった大茶屋に一同が集まります。「頼母子講」の集まり、という名目での会合でした。「頼母子講」とは「無尽講」ともいい、参加者が積立したお金を集め、会合で参加者の一人がそのお金を受け取る、という仲間内の扶助的な集まりです。誰が集めたお金を受取るかについては、参加者が集まってくじなどの抽選で決めるのが一般的でした。抽選を行う会合であれば、大人数の集まり(しかも浪人風)でも怪しまれないで済む、と考えたのでしょう。

深川八幡(富岡八幡)に赤穂浪士達も仇討の成功を祈願したのでしょうか

映画「決算!忠臣蔵」の中では、討入に当っての人数配置や心得を確認するなどの他に、装備に何が必要か、という意見が交わされます。あれやこれや必要なものが増えるたびに、画面隅の残金が減り、大石の眼が虚ろになっていくのが笑いどころです。
その話はさておき、この会議で討ち入りの日程と手筈が決められました。前に紹介したように、屋敷の部屋の配置がわからなければ人の配置も決められません。また、吉良は隠居の身で役務に束縛されない立場で、上杉藩邸に滞在することもしばしばでした。上杉藩邸は江戸城桜田門のそばにあり、吉良邸とは5kmほど離れた場所です。

討ち入りの日に仇がいなかった、では話になりません。そのため、吉良邸の内部の様子を知ることと、吉良の在宅の日がいつなのか、を探るのがかねてからの重要課題となっていました。
吉良邸の内部の情報収集については、8月にはすでに江戸急進派の堀部安兵衛倉橋伝助杉野十平次勝田新左衛門横川勘平吉田忠左衛門などが吉良邸周りの夜回りを開始しています。が、情報収集のためとはいえ、この行為は怪しすぎて吉良方に疑念を持たれることになる、と取りやめになりました。
次に吉良邸の裏門近くに店を出していた前原伊助神崎与五郎が情報収集にあたっています。外側からいくら邸内を覗いたところで部屋の配置などを知ることはできません。が、10月までに吉良邸内の見取り図を入手しています。創作では吉良邸の女中と良い仲になった岡野金右衛門が入手した、ということになっています。女中の父親が吉良家の普請を請け負った大工の元締めであったことから、そのつてで手に入れたというのですが、寺坂吉右衛門の残した記録に「内縁を以て」と書かれていることから、このルートではないものとされています。

吉良邸裏門跡の案内板

実際の入手経路は明らかではないですが、部屋の配置はわかりました。次は吉良の在宅日です。それについては次回に。

言うは易く 行うは仇(かたき)

神文を書いた元藩士ではあっても、中には廃藩後は連絡を取っていない者もいます。江戸の横川、上方の大高、貝賀はつてをたどりながら居場所を探し、会って回ります。

「討入りする気持ちに変わりがないか?」などとストレートに訊いたのでは、武士の面目がありますから、建前上「討入りする」という回答になってしまい、本音を探ることができません。

そのため、「いまや仇討は困難で、止める他なくなった」と各々が書いた神文を返却する、という方法を採ります。

巣鴨妙行寺 浅野内匠頭夫人瑶泉院の供養塔と大学の蓮光院の墓もここに

このような形で偽りの仇討の中止を伝えていくことで、本心から仇討を考えるならば、「やめるとはどういうことだ!」と反応するはずです。一方浪人後すでに新しい人生を歩んで、仇討への意志が薄れてしまった者にとっては、逃げ道を示されることで脱落という不名誉な形でなく離脱できることになります。神文の受け取りを拒んだ者を仇討の志のあるものとして盟約に加えていくことにしたのです。

大石は安養寺で行われた会議で宣言した通り、10月7日に京を出立、江戸に向かいます。二度目かつ最後の江戸行きでした。江戸に到着したのは11月7日ですが、途中箱根を通った際、仇討で有名な曽我兄弟の墓に参り墓を詣でて、討ち入りの成功を祈願し墓石を少し削って懐中に納めたといいます。「曽我兄弟の仇討」は武士社会においては仇討ちの模範とされており、大石もそれにあやかりたいとの気持ちを強く抱いていたのでしょう。

江戸に到着した大石は仇討の計画を練っていきますが、元下級藩士たちの生活の窮乏はぎりぎりのところまで来ています。「御家再興総予算」は再興の見込みがなくなってから討入準備用の資金となっており、その中から同志への援助を行ってきました。が、それも底を尽きかけています。当初の内匠頭三回忌(翌年3月)の予定より前倒しで実行せざるを得ない状況となっていたのです。次回、討入の日が決定します。

 

 

中心グラグラ5

大石は御家再興運動を続けますが、急進派はそれを見守りながらも、浪人暮らしのこと、経済的な窮乏もあって焦りは次第に強くなります。1大石らに近い藩士を外し、自分たちだけ10数名自分で討入りを行えば、浅野大学や大石の動きと無関係であり、迷惑がかかることはないだろう、と考え、独自行動を模索します。

元禄十五年(1702)6月末に堀部は京都に上り、上方にいる急進派の原、大高らと大石外しの相談に及び、7月中に頭数を揃えて江戸へと下る予定でした。

が7月18日、浅野大学に対し広島浅野宗家にお預け、という処分が下され、その日のうち二大学は広島藩邸に遷ります。この知らせが大石の下に届いたのが同月24日。「お預け」ということは、赤穂浅野家の再興の可能性が絶たれた、ということでした。

泉岳寺にある浅野内匠頭夫人瑤泉院の墓 二つ左が浅野大学長広の墓

この報により、もはや討入りを止める理由は何もなくなります。7月28日、京都東山にある安養寺にて会議が開かれ、大石は10月に江戸に下って、その後吉良邸に討入り主君の仇討を行うことを正式に決めたのでした。この会議に参加していた堀部は江戸に戻った後、江戸の同士に対してこの会議で決まった内容を伝えます。その方法も貧乏浪士が集まって会談すると怪しまれるため、隅田川で船を借り月見の宴を装うという工夫を凝らしています。

さて、実際に「討入り」を決めたものの、誰が参加するか、ということが重要になります。内匠頭切腹、藩の取り潰しからすでに1年半弱が経過しており、それぞれ旧藩士たちの境遇も変わり、心変わりする藩士もいるはずです。ここで神文(起請文)を使うことになります。この神文は改易の際大石が赤穂で集めたものと、急進派が江戸で集めたものを合わせ最大で120名分あったといいます。

横川勘平が江戸、貝賀矢左衛門と大高源五が上方の同志の間を一人一人訪ねて回り、それぞれの討入の意思を確認しに回ったのですが・・その話は次回で。

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「討たれたらあとから仇討ちよろしく」と言われて「承知しました。心置きなく行っておいでなさい」などいうような安兵衛ではありません。成り行き上当然のことながら「私も一緒に助太刀いたします」と返答、高田馬場に同行することになります。この決闘の当事者である菅野と村上はお互いに斬りあった末命を落としますが、安兵衛は相手方3人を斬り倒し、助太刀の役割を十二分に果たしました。

堀部安兵衛の墓(泉岳寺に他の義士とともに葬られています)

話に尾ひれがついて、「18人斬り」として江戸で大いに評判となりました。この評判を聞いて「娘婿として自分のあとを継いでもらいたい」と言い出したのが、赤穂藩300石の知行を受けていた堀部弥兵衛です。
主君内匠頭からも養子縁組の許しを得て、元禄七年(1694)7月に安兵衛は弥兵衛の娘きちと結婚、赤穂藩士となります。
決闘の話が長くなりましたが、安兵衛が武闘派で義理人情に厚い人物であったこと、代々の赤穂藩士ではなく、内匠頭個人から恩を受けていたことはおわかりいただけたのではないでしょうか。
つまり、安兵衛の忠義は「赤穂藩」というより、主君個人への忠義だったといえます。江戸急進派の面々の考えもほぼ安兵衛と同じものでした。内匠頭の無念を晴らすためには、吉良を討ち取る以外の方法はない、ということになります。
一方、大石ら「上方漸進派」は、浅野「家」とのつながりが深く、浅野家への忠義を第一に考えていました。お家再興が果たせれば、それが一番の忠義となる、ということで、そもそも目指すところが違っていたわけです。

元禄十五年(1702)2月に山科で行われた会議では、「浅野大学の処分を待って事を起こす」、逆に言えばそれまでは事を起こさない、という大石の従来の主張が通り、仇討の期限も内匠頭の三回忌(刃傷事件の二年後)となりました。山科での会議に参加していた急進派の原惣右衛門、大高源吾ですが、大石らを抜きにして仇討を起こそうにも頭数が足りず、その結論に従わざるを得ません。

仇討への葛藤の日々が続きます。

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江戸の堀部安兵衛を中心とする「江戸急進派」に対して、大石ら京都・大坂の「上方漸進派」の対立は深まります。どちらも主君・主家への忠義を行動で示そうという気持に違いはないのですが…
堀部安兵衛の「忠義」の対象は、浅野内匠頭「個人」にあったといえます。彼は代々の赤穂藩士ではありませんでした。越後国新発田藩の家臣、中山弥次右衛門の長男として生まれています。200石の扶持があったということはそれなりの家柄です。しかし天和3年(1683)父が新発田藩を追われて浪人となったことで彼の運命は大きく変わります。逆にそのことで、歴史に大きく名を残すことにもなるのです。
父の死後、姉の嫁ぎ先に引き取られた後、元禄元年(1688)に更に親戚を頼って江戸に出ます。小石川牛天神下にあった剣術道場、堀内道場に入門します。すぐさま免許皆伝を得て、道場の四天王となりました。

小石川牛天神 堀内道場はここから坂を下ったところにありました

各藩から大名の出張稽古で呼ばれるようになると収入も増え、牛込に一戸建ての自宅を構えるまでになります。この時まだ二十歳前後ですから、「浪人」とはいっても長屋に住んで傘張りをするという貧乏な中年の侍、というイメージとは全く違いますね。
彼の前半生で大きく名を上げたのが、「高田馬場の決闘」での活躍です。ここで出てくるのが、伊予西条藩士、菅野六郎左衛門という人物。堀部の出張稽古先に西条藩があり、そこで意気投合した二人は叔父甥の義を結んでいました。六郎左衛門の生年が不明なのですが、おそらくは十数歳上で、義兄弟とするには歳が離れすぎていたのでしょう。
その義理の叔父が、元禄七年(1694)2月に西条藩同僚の村上庄左衛門といさかいあって口論となります。周りの藩士たちのとりなしで一旦は盃を交わして仲直りしたものの、その後また口論となり、二人は高田馬場で決闘を行うことを決めます。
当事の決闘は必ずしも一対一で行うものではなく、知り合いや兄弟に「助太刀」を頼むのが普通でした。実際相手の村上方は兄弟家来を含め6,7人、一方菅野の側はというと、奉公人(若党)と草履取りのみ。これでは勝ち目はないと覚悟し、安兵衛の下を訪ねます。助太刀を頼むつもりではなく、「自分が討たれた時は自分の妻子を引き受け、また代わりに村上を討ってほしい」と頼んだのでした。

それを聞いた安兵衛は・・話は逸れていますが、「高田馬場の決闘」の話が続きます。

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12月に京都山科に戻った大石ですが、この頃から廓での放蕩が激しくなったとされています。これが世の中を欺くためだったのか、本当に楽しんでいたのかについては色々説のあるところです。ちなみにこれらの遊興費は前回ご紹介した「御家再興総予算」を使ったわけではなく、あくまで大石の自腹だったようです。

「一力茶屋」は祇園の中でも最も格式が高いといわれる「お茶屋で、門構えにも風格があります。「仮名手本忠臣蔵」では、大石(大星由良之助)が、二階座敷で遊女たちを集め酒宴を開き、太鼓や三味線を囃させ騒いでいる様が描かれます。

祇園お茶屋「一力亭」

3人の浪士が大石の元を訪ね、余りの放蕩ぶりに呆れますが、実は敵(吉良)方の目を欺く芝居であったことが知れる一段です。大石が実際にここで遊興したかについては疑問が残りますが、江戸時代の歌舞伎や浄瑠璃の舞台となったお茶屋が今も現存して営業している、と考えると門構えの風格が増すような気がします。
映画「決算!忠臣蔵」では祇園というより伏見あたりの情景が描かれていましたが、大石の住まいが山科であったことを考えると、がそちらのほうがより真実に近いのではないでしょうか。
一方、吉良側では12月11日、主君の仇、吉良上野介義央の隠居が幕府に認められ、嫡男の義周(よしちか、よしまさ、とも)に家督を譲ることとなりました。これが江戸にいた急進派を焦らせることになります。米沢藩上杉家に隠居した上野介が引き取られてしまう可能性があったからです。

このあたりの関係について少し説明が必要です。跡目を相続した義周は、実際には上野介の孫にあたります。赤穂事件から三十数年前の寛文4年(1664)に、米沢藩主上杉綱勝が継嗣のないままこの世を去ったことで、米沢藩断絶・改易の危機がありました。その際、綱勝の妹と吉良の間に生まれた男子が末期養子の形で上杉家に入り、米沢藩主上杉綱憲となりました。綱憲の次男、春千代が今度は吉良家の養子となり、今家督を継いだ、というわけです。隠居したことにより、米沢藩が実父を引き取ってしまうと、4200石の吉良家ならともかく、15万石の米沢藩では手の出しようがなくなります。

江戸急進派の焦りはそこにありました。討入りまでの葛藤が続きます。