おっさんの街歩き(忠敬に憧れて)

首都圏周辺の見て歩きや気になった本やドラマなどについて語ります

中心グラグラ3

江戸の堀部安兵衛を中心とする「江戸急進派」に対して、大石ら京都・大坂の「上方漸進派」の対立は深まります。どちらも主君・主家への忠義を行動で示そうという気持に違いはないのですが…
堀部安兵衛の「忠義」の対象は、浅野内匠頭「個人」にあったといえます。彼は代々の赤穂藩士ではありませんでした。越後国新発田藩の家臣、中山弥次右衛門の長男として生まれています。200石の扶持があったということはそれなりの家柄です。しかし天和3年(1683)父が新発田藩を追われて浪人となったことで彼の運命は大きく変わります。逆にそのことで、歴史に大きく名を残すことにもなるのです。
父の死後、姉の嫁ぎ先に引き取られた後、元禄元年(1688)に更に親戚を頼って江戸に出ます。小石川牛天神下にあった剣術道場、堀内道場に入門します。すぐさま免許皆伝を得て、道場の四天王となりました。

小石川牛天神 堀内道場はここから坂を下ったところにありました

各藩から大名の出張稽古で呼ばれるようになると収入も増え、牛込に一戸建ての自宅を構えるまでになります。この時まだ二十歳前後ですから、「浪人」とはいっても長屋に住んで傘張りをするという貧乏な中年の侍、というイメージとは全く違いますね。
彼の前半生で大きく名を上げたのが、「高田馬場の決闘」での活躍です。ここで出てくるのが、伊予西条藩士、菅野六郎左衛門という人物。堀部の出張稽古先に西条藩があり、そこで意気投合した二人は叔父甥の義を結んでいました。六郎左衛門の生年が不明なのですが、おそらくは十数歳上で、義兄弟とするには歳が離れすぎていたのでしょう。
その義理の叔父が、元禄七年(1694)2月に西条藩同僚の村上庄左衛門といさかいあって口論となります。周りの藩士たちのとりなしで一旦は盃を交わして仲直りしたものの、その後また口論となり、二人は高田馬場で決闘を行うことを決めます。
当事の決闘は必ずしも一対一で行うものではなく、知り合いや兄弟に「助太刀」を頼むのが普通でした。実際相手の村上方は兄弟家来を含め6,7人、一方菅野の側はというと、奉公人(若党)と草履取りのみ。これでは勝ち目はないと覚悟し、安兵衛の下を訪ねます。助太刀を頼むつもりではなく、「自分が討たれた時は自分の妻子を引き受け、また代わりに村上を討ってほしい」と頼んだのでした。

それを聞いた安兵衛は・・話は逸れていますが、「高田馬場の決闘」の話が続きます。