おっさんの街歩き(忠敬に憧れて)

首都圏周辺の見て歩きや気になった本やドラマなどについて語ります

中心グラグラ4

「討たれたらあとから仇討ちよろしく」と言われて「承知しました。心置きなく行っておいでなさい」などいうような安兵衛ではありません。成り行き上当然のことながら「私も一緒に助太刀いたします」と返答、高田馬場に同行することになります。この決闘の当事者である菅野と村上はお互いに斬りあった末命を落としますが、安兵衛は相手方3人を斬り倒し、助太刀の役割を十二分に果たしました。

堀部安兵衛の墓(泉岳寺に他の義士とともに葬られています)

話に尾ひれがついて、「18人斬り」として江戸で大いに評判となりました。この評判を聞いて「娘婿として自分のあとを継いでもらいたい」と言い出したのが、赤穂藩300石の知行を受けていた堀部弥兵衛です。
主君内匠頭からも養子縁組の許しを得て、元禄七年(1694)7月に安兵衛は弥兵衛の娘きちと結婚、赤穂藩士となります。
決闘の話が長くなりましたが、安兵衛が武闘派で義理人情に厚い人物であったこと、代々の赤穂藩士ではなく、内匠頭個人から恩を受けていたことはおわかりいただけたのではないでしょうか。
つまり、安兵衛の忠義は「赤穂藩」というより、主君個人への忠義だったといえます。江戸急進派の面々の考えもほぼ安兵衛と同じものでした。内匠頭の無念を晴らすためには、吉良を討ち取る以外の方法はない、ということになります。
一方、大石ら「上方漸進派」は、浅野「家」とのつながりが深く、浅野家への忠義を第一に考えていました。お家再興が果たせれば、それが一番の忠義となる、ということで、そもそも目指すところが違っていたわけです。

元禄十五年(1702)2月に山科で行われた会議では、「浅野大学の処分を待って事を起こす」、逆に言えばそれまでは事を起こさない、という大石の従来の主張が通り、仇討の期限も内匠頭の三回忌(刃傷事件の二年後)となりました。山科での会議に参加していた急進派の原惣右衛門、大高源吾ですが、大石らを抜きにして仇討を起こそうにも頭数が足りず、その結論に従わざるを得ません。

仇討への葛藤の日々が続きます。