おっさんの街歩き(忠敬に憧れて)

首都圏周辺の見て歩きや気になった本やドラマなどについて語ります

中心グラグラ5

大石は御家再興運動を続けますが、急進派はそれを見守りながらも、浪人暮らしのこと、経済的な窮乏もあって焦りは次第に強くなります。1大石らに近い藩士を外し、自分たちだけ10数名自分で討入りを行えば、浅野大学や大石の動きと無関係であり、迷惑がかかることはないだろう、と考え、独自行動を模索します。

元禄十五年(1702)6月末に堀部は京都に上り、上方にいる急進派の原、大高らと大石外しの相談に及び、7月中に頭数を揃えて江戸へと下る予定でした。

が7月18日、浅野大学に対し広島浅野宗家にお預け、という処分が下され、その日のうち二大学は広島藩邸に遷ります。この知らせが大石の下に届いたのが同月24日。「お預け」ということは、赤穂浅野家の再興の可能性が絶たれた、ということでした。

泉岳寺にある浅野内匠頭夫人瑤泉院の墓 二つ左が浅野大学長広の墓

この報により、もはや討入りを止める理由は何もなくなります。7月28日、京都東山にある安養寺にて会議が開かれ、大石は10月に江戸に下って、その後吉良邸に討入り主君の仇討を行うことを正式に決めたのでした。この会議に参加していた堀部は江戸に戻った後、江戸の同士に対してこの会議で決まった内容を伝えます。その方法も貧乏浪士が集まって会談すると怪しまれるため、隅田川で船を借り月見の宴を装うという工夫を凝らしています。

さて、実際に「討入り」を決めたものの、誰が参加するか、ということが重要になります。内匠頭切腹、藩の取り潰しからすでに1年半弱が経過しており、それぞれ旧藩士たちの境遇も変わり、心変わりする藩士もいるはずです。ここで神文(起請文)を使うことになります。この神文は改易の際大石が赤穂で集めたものと、急進派が江戸で集めたものを合わせ最大で120名分あったといいます。

横川勘平が江戸、貝賀矢左衛門と大高源五が上方の同志の間を一人一人訪ねて回り、それぞれの討入の意思を確認しに回ったのですが・・その話は次回で。