おっさんの街歩き(忠敬に憧れて)

首都圏周辺の見て歩きや気になった本やドラマなどについて語ります

言うは易く 行うは仇(かたき)

神文を書いた元藩士ではあっても、中には廃藩後は連絡を取っていない者もいます。江戸の横川、上方の大高、貝賀はつてをたどりながら居場所を探し、会って回ります。

「討入りする気持ちに変わりがないか?」などとストレートに訊いたのでは、武士の面目がありますから、建前上「討入りする」という回答になってしまい、本音を探ることができません。

そのため、「いまや仇討は困難で、止める他なくなった」と各々が書いた神文を返却する、という方法を採ります。

巣鴨妙行寺 浅野内匠頭夫人瑶泉院の供養塔と大学の蓮光院の墓もここに

このような形で偽りの仇討の中止を伝えていくことで、本心から仇討を考えるならば、「やめるとはどういうことだ!」と反応するはずです。一方浪人後すでに新しい人生を歩んで、仇討への意志が薄れてしまった者にとっては、逃げ道を示されることで脱落という不名誉な形でなく離脱できることになります。神文の受け取りを拒んだ者を仇討の志のあるものとして盟約に加えていくことにしたのです。

大石は安養寺で行われた会議で宣言した通り、10月7日に京を出立、江戸に向かいます。二度目かつ最後の江戸行きでした。江戸に到着したのは11月7日ですが、途中箱根を通った際、仇討で有名な曽我兄弟の墓に参り墓を詣でて、討ち入りの成功を祈願し墓石を少し削って懐中に納めたといいます。「曽我兄弟の仇討」は武士社会においては仇討ちの模範とされており、大石もそれにあやかりたいとの気持ちを強く抱いていたのでしょう。

江戸に到着した大石は仇討の計画を練っていきますが、元下級藩士たちの生活の窮乏はぎりぎりのところまで来ています。「御家再興総予算」は再興の見込みがなくなってから討入準備用の資金となっており、その中から同志への援助を行ってきました。が、それも底を尽きかけています。当初の内匠頭三回忌(翌年3月)の予定より前倒しで実行せざるを得ない状況となっていたのです。次回、討入の日が決定します。