おっさんの街歩き(忠敬に憧れて)

首都圏周辺の見て歩きや気になった本やドラマなどについて語ります

桜、咲くに見惚れる3

再び染井通りに戻って進むと、染井霊園の入り口が見えてきます。維新後、明治政府は「神仏分離令」を発し、神道の国教化を図っていきます。しかし、東京の墓地はほとんど寺院の中にあたため、新たに寺院と関係のない墓地を作る必要がありました。

明治5年(1872)に林田藩藩邸の跡地であったこの場所に開設されたのが、「染井墓地」現在の「染井霊園」です。2年後に当時の東京府(現在の都ですね)の管理するところとなりました。

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染井霊園内には約100本の桜(もちろんソメイヨシノ)が植えられています

霊園入口右手前には舟形の石に彫られた十二体のお地蔵様がいらっしゃいました。高さは1.7メートルくらいでしょうか、一石から掘り出しているので一石十二地蔵と呼ばれています。享保15年(1730)の大火で亡くなった人々の供養塔ともいわれていて、舟形上部の無数の渦巻は炎を表したものだとか。

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染井霊園入口そばの一石十二地蔵

その成り立ちから、染井霊園は宗教によらない公共墓地なのですが、霊園の周辺にはいくつかお寺があり、その一つが専修院です。専修院はもともと松ケ谷(浅草と上野の間辺り)から、明治の終わりに現在地に移転されました。ここに江戸第一の植木屋、「伊藤伊兵衛」の屋敷があったところだそうです。

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専修院の案内板 「伊藤伊兵衛」の名前があります

三代目伊兵衛(三之丞)は薩摩からキリシマツツジを運び、元禄時代ツツジの一大ブームを作り出し、「霧島屋」を名乗りました。別名「つつじ屋伊兵衛」。

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ツツジ根津神社

豊島区の花は「ツツジ」です。区の木「ソメイヨシノ」と「ツツジ」どちらも染井の里が大きくかかわっているのでした。

三代目伊兵衛(三之丞)の息子(といわれている)のが、四代目政武、一説には染井吉野の開発者と目されている人物です。

この話はまた次回。