おっさんの街歩き(忠敬に憧れて)

首都圏周辺の見て歩きや気になった本やドラマなどについて語ります

「塞でんなぁ〜」「砲でんなぁ〜」5

楠葉台場完成の2年後、慶應三年(1867)10月14日、第十五代将軍、徳川慶喜は大政を奉還します。その後12月9日に王政復古の大号令が発せられると、親徳川派の譜代藩・旗本の諸兵からは薩摩を討伐せよ、という声が上がります。衝突を避けるため、慶喜はひとまず幕府側の軍勢を大坂に退去させることとしました。

しかし、大阪城では主戦論がさらに高まり、一方で慶喜が御所への参内を命じられたことから、慶應四年(1688)正月2日から3日にかけ、京都に向けて約1万5千の軍勢が進軍します。(大政を奉還しているので、「旧幕府軍」と表記します)

鳥羽伏見の戦い勃発の地

当時、京都から大阪へは羅城門跡から鳥羽を通り淀へと通じる道が街道となっており、これが「京街道」「大阪街道」あるいは「鳥羽街道」と呼ばれる街道です。

3日午前、鴨川にかかる「小枝橋」の周辺で、街道を進む旧幕府軍先鋒と封鎖していた薩摩藩兵が接触します。といってもその時点で戦闘が始まったわけでなく、通行を求める旧幕府軍と京都からの許可を待つようにとの薩摩藩との問答が繰り返されました。

城南宮境内の「鳥羽伏見の戦いの後」案内板

問答は続き、業を煮やした幕府軍は午後五時頃、全身を開始し、強引に押し通ろうとします。一方薩摩藩は通行を許可しない旨を回答、直後に一斉に銃・大砲を発砲しました。この段階での戦闘を予期していなかった旧幕府軍は、この砲撃によって大混乱を起こします。この時点から「鳥羽・伏見の戦い」が始まったといえます。

この稿の本題は、「鳥羽・伏見の戦い」での楠葉台場についてですので、戦いの経過はいったん省略します。

鳥羽や淀方面で後退を余儀なくされた旧幕府軍は、「楠葉台場」と台場付近の「橋本陣屋」に集結し布陣を立て直そうとしました。

楠葉台場案内板

が、楠葉台場と対で造られていた対岸の「高浜台場」の津藩(藤堂氏)が旧幕府軍に対して砲撃を加えてきたのです。新政府軍は高浜砲台の守備に入っていた藩主の藤堂元施(もとひろ)に、新政府側に着くよう説得、これを受けて楠葉・橋本に向けて砲撃を加えたものでした。

前回触れたように、この台場は大阪側から入ってくる敵を防ぐための作りで、京都側からの攻撃は想定しておらず、更には対となる高浜台場からの攻撃もあり、この布陣を維持できずここから後退し大阪まで落ち延びざるを得ませんでした。

淀川の南北に造られた二つの台場は、外国からの攻撃を防ぐどころか、その台場を作った幕府滅亡のきっかけとなってしまったのは、実に皮肉な歴史の結末だと思えます。

関西の砲台・台場の話は以上です。最後までお読みいただき、ありがとうございました。