おっさんの街歩き(忠敬に憧れて)

首都圏周辺の見て歩きや気になった本やドラマなどについて語ります

枯死、改修2

調べてみると「日暮里の大火」というのは、過去2回大正十四年(1925)3月と昭和三十八年(1963)の4月に起きていて、ここでは前者を指します。3月18日午後2時半頃、日暮里町大字金杉にあったアサヒ反毛会社工場から出火しました。

正面の屋根の下にあるのは初代「御行の松」の根

「反毛(はんもう)」という言葉はが初耳だったので、これも調べたところ「廃棄糸、廃棄生地、古着などを綿状に戻して繊維として再利用すること」だそうです。最初は機械の摩擦から火花がとび、機械油に引火→そちらの火は消し止めたものの工場付近の酸素製造工場の屋根に飛び火→反毛工場内に原料として置かれていた古い毛織物や毛糸くず約11〜15トンに燃え移る→更には北西から吹いていた強風(風速13mを記録)によって、一帯に火が燃え広がるという不幸に不幸が重なった事故でした。
全半焼合わせ2,000戸、消失面積は46,000坪という大規模な火災となりましたが、唯一の救いは死者が出なかったこと。これは昭和の日暮里の大火も同じで、出火が昼間であったことで、避難がスムーズに進んだかとが原因の一つだといわれています。
この辺りの関東大震災で焼け残った地域は、ほぼ焼き尽くされました。

中央に「西蔵院」があり少し上に「御行松不動堂」 このあたりが金杉村でした

「大江戸今昔巡り」ではこのあたりが金杉村に当たっていて、「御行の松」は焼けこそしなかったものの相当なダメージを負ってしまったことでしょう。

明治以降、その樹勢に衰退を見せ始めていましたが、この大火以降は急に衰えがひどくなりました。直接的には火災の影響があったようですが、一方でこの辺りを流れていた石神井用水の川床が変化し、また上流の田端や日暮里に多数できた工場からの排水や、その他汚水の流入が老松に悪影響を与えたものといわれています。

大火の翌年、大正十五年(1925)に「名木」として天然記念物の指定を受けたものの、昭和三年の夏には殆ど枯れ死した状態となりました。

そして太平洋戦争。不動堂は焼失、仮のお堂が建立されたものの、戦後の混乱の中にあって荒れるにまかせていました。不動堂の復興と二代目の松の話は次回で。