同じく「大奥」第14回では、家斉が御台所(演:蓮佛美沙子さん)との間で交わした会話に、
「どのみち私は、母上の操り人形じゃしのぅ」
とつぶやく場面がありました。その後、自身が接種した「人痘」を再び始められないか、母治済に話を持ち掛ける場面では、
「男が政(まつりごと)を語るのではないわ!!」
と一喝され、家斉は平伏してしまいます。
実際、家斉が15歳で将軍の座に就いた天明七年(1787)から、父(史実上)治済が亡くなる文政十年(1827)までの40年間、その言いなりであったと伝えられます。
親や祖先を敬う姿勢の篤い人物であったかというと、少なくとも「祖先」に対しては疑問符が付きます。というのも、将軍の座にあった50年、いや60余年の生涯で一度も日光東照宮へ参拝をしたことがありません。
徳川幕府に財政的な余裕がなかったことも理由の一つでしょうが、前将軍家治や次の将軍家慶(息子)は参拝を行っているので、徳川将軍の中で最も在職期間の長い家斉が参拝していないことは意外に感じます。
そんな家斉が自身で参詣するか、若年寄を代わりに参詣させていたのが、急死した将軍候補、家基の命日です。養子に入った先の先代の子供にここまで敬意を払うのは、余り例を見ないこと。一生日光東照宮参詣をしなかったことと比べると、その異例さが際立ちますね。家斉は、家基の変死が父治済による暗殺だったと疑っていた可能性が高いとする説もあります。
また、最晩年を除きほとんど大病を患うことのなかった家斉が、唯一悩まされたのが「頭痛」でした。この持病についても、家基の祟りを恐れていたため、という話も。
大きな枠組みは「男が侍る大奥」という虚構ながら、このような細かい史実を散りばめながら実在の人物を動かし、話を組み立てているところが「大奥」コミック原作とドラマの魅力といえます。
さて、前回、老中松平定信が罷免されるシーンをご紹介しましたが、このあたりの史実はどうだったのか、次回ご紹介していきます。