JR駅伊丹駅のすぐ西側に石垣があって、階段を上ると礎石や井戸などの遺構があり、史跡公園として整備されています。南北朝から室町時代にかけ「伊丹氏」がこの周辺を統治し、室町時代には細川氏や畠山氏の被官、つまり配下にあったようです。
その後、織田信長が足利義明の後ろ盾となって上洛すると、畿内を支配していた三好三人衆は畿内を放棄して本拠地の阿波国に撤退します。当時の伊丹氏当主の親興(ちかおき)は、池田氏当主の池田勝正(いけだ かつまさ)と共に信長に降り、二人とも本領を安堵されます。永禄十一年(1568)のことです。
その際、15代将軍となった義昭の近臣、和田惟政(わだ これまさ)も摂津国高槻を与えられ、親興、勝正、惟政の三人が摂津国の守護として任命されました。
しかし、信長と将軍義昭の関係が悪化、この三人も三者三様の行動と結末を迎えるのですが、ここでは親興の話のみ続けます。元亀三年(1572)に義昭と松永久秀に加え、阿波の三好三人衆がひそかに同盟を結んだ際、親興もこの同盟の側に加わりました。
御存じの通りその先、義昭側は信長の軍門に下ります。天正二年(1574)親興の籠る伊丹城は摂津国衆で信長配下の荒木村重(あらき むらしげ))に攻められ落城、親興は自害して果てました。(一説には落城後落延びて浪人し、関ケ原の戦いで戦死したともいわれます)
伊丹城に入城した村重は、ここを居城として大改修し、「有岡城」と改名します。元の領主の氏姓がついた名を嫌ったのでしょう。古来「有明の丘(岡)」という異称があり、そこからとったものだそうです。
さて、その村重も、これもご存じの通り天正六(1578))信長に反旗を翻します。ここに一年以上籠城、秀吉の使者としてやってきた小寺孝高(こでら よしたか 後の黒田官兵衛孝高)を幽閉、官兵衛は牢内の困苦により足が不自由になっていたことはよく知られた故事ですね。
有岡城の落城により、地名は「伊丹」と戻りました。
1回分かけて伊丹の話で終わってしまい、鴻池の字もでてきませんでしたが、ここ伊丹が鴻池発祥の地となるのです。その話は次回に。