おっさんの街歩き(忠敬に憧れて)

首都圏周辺の見て歩きや気になった本やドラマなどについて語ります

あっち行け、そっち行け、鴻池3

伊丹市の市域を地図で見てみると、東西と南北がそれぞれ5kmほど、面積を調べたらまさに25㎢でした。その市域の北西部、JR伊丹駅からは4㎞位離れたところにバス停「鴻池」があります。

まさに地名が「鴻池」

前々回ご紹介した山中幸盛(鹿介)の長男で山中幸元(やまなか ゆきもと)は、播磨の戦国大名、別所氏の家臣、黒田幸隆(くろだ ゆきたか)の元に預けられていました。この黒田家は山中家の本家筋にあたり、幸元を黒田家に養子に出す話があったようで、父幸盛が尼子氏の再興に身を投じるにあたっての策だったとも思えます。

が、天正六年(1578)に父幸盛は毛利家との戦いの後謀殺され、一方の黒田幸隆も織田信長の配下、木下藤吉郎(のちの豊臣秀吉)によって滅ぼされてしまいます。寄る辺なき流浪の身となった幸元が頼ったのが、この地に隠居していた大伯父の山中信直(やまなか のぶなお)でした。

写真のバス停から北西に200mほど離れたところに「鴻池児童遊園地」というこじんまりした公園があり、この地が鴻池本家の「発祥の地」とされているところです。公園の中央部分に赤い鳥居と祠があり、その手前左側に石碑が建てられています。

鴻池児童遊園地 左に石碑、右に祠が見えます

大伯父の信直は諸国遍歴中に荒木村重に仕える身となりましたが、村重の奢った振舞いを諫めたものの聴き入れられなかったことで職を辞し、この地に隠棲していたのです。そのまま村重に仕えてたら、後の鴻池はなかったかもしれません。

この地にたどり着いた幸元が、鴻池尚文(こうのいけ なおふみ 新六:しんろく、新右衛門:しんえもん、の名も)を名乗り、鴻池の始祖とされています。

鴻池稲荷祠碑(こうのいけいなりしひ) 鴻池家の由来を記します

祠横の石碑は布貨を形どって、亀の石像を台座にして立てられています。布貨(ふか)とは中国の古代貨幣で、商家のデザインとして凝ったものといえます。(これが小判や銭だと下品ですが・・)

更に横に建てられた説明文によると、この碑は天明四年(1784)からほどなく制作され、その字句は大坂の私塾、懐徳堂(かいとくどう)の教授を務めていた中井積徳(なかい せきとく、履軒:りけん、とも)によるものとのこと。

碑の最初の部分の大意は、「鴻池家は酒造によって財を成し、200年も続いている。その初代は幸元で山中鹿介の子孫であるといわれている。鴻池家は初めて清酒諸白を製造し、江戸まで出荷した。」というものです。

次回は鴻池と清酒と伊丹、についてご紹介します。