おっさんの街歩き(忠敬に憧れて)

首都圏周辺の見て歩きや気になった本やドラマなどについて語ります

涙、武士だよ人生は2

前回、年表形式で英龍に関わる出来事を並べていきましたが、ここに「プチャーチン」と「安政東海地震」「ジョン万次郎」というこれまで出てきていないワードが出てきました。

韮山江川邸の「坦庵公と一緒に写真を」フレーム

プチャーチンは、ロシア帝国の海軍軍人で皇帝ニコライ1世から日本開国に向けた交渉担当である全権使節に任じられており、その立場はペリーと非常によく似ています。

また、プチャーチンが日本に来るにあたり、最初に当時の日本の外交窓口にあたる長崎に来航したのは、シーボルトのアドバイスがありました。実はペリーが日本に遠征する情報を得たシーボルトは、遠征の準備段階でペリーに対し参加を申し出ています。

ご存知の通り、シーボルトは文政十二年(1829)に日本追放と再来航禁止の処分を受けています。その処分が影響してか、ペリーはその申出を断っています。シーボルトアメリカから断られた後、今度はロシアに協力したのは、日本の開国によりもう一度日本の土を踏みたいとの意思の表れかと思われます。

7月に長崎に来航し、長崎奉行に国書を渡したプチャーチンは、幕府の全権が到着するのを待って交渉を行う予定でしたが、約3ヶ月後、上海に向かって出航しています。

これは同じ年にロシア帝国オスマン・トルコ帝国との間に勃発したクリミア戦争の影響でした。イギリス・フランス両国がオスマン・トルコ帝国側ついて参戦したため、極東にいたプチャーチンイギリス海軍の攻撃を受けるとの情報により、いったん長崎を去らざるを得なくなったのです。

プチャーチンの艦隊は、このクリミア戦争と日本・下田港での地震被災などにより翻弄され、それが英龍にも大きくかかわってくることになります。

 

涙、武士だよ人生は

この前後の江川英龍と日本を取り巻く状況は目まぐるしく、それに振り回された多忙な日々が続いています。先にあらすじを書くようですが、何が何だかわからなくなる(書く方も)ので、先に年表形式で時系列に並べます。

嘉永六年(1853)

6月 ペリー(アメリカ)艦隊浦賀に来航

7月 プチャーチン(ロシア)艦隊長崎に来航

8月 品川お台場砲台着工

11月 幕府ジョン万次郎を登用、その後英龍の配下に加えられる

12月 プチャーチン長崎再来航

同月 下田の地に反射炉を築く基礎工事開始


嘉永七年=安政元年(1854)

1月 ペリー浦賀に再来航 

3月 日米和親条約締結 

同月 下田の反射炉建設敷地内に米国水兵侵入

4月 品川お台場砲台完成(第一〜第三台場)

同月  反射炉建設地を田方郡中村字鳴滝に変更し工事開始   

6月 ペリー下田から退去

8月 プチャーチン箱館来航→拒否され大阪へ→下田に回航するよう要請受ける

10月 プチャーチン下田来航

同月 品川お台場砲台築造完了(当初計画縮小し残りの台場完成)

11月 4日安政東海地震発生 駿河·伊豆地方に甚大な被害が発生(32時間後に安政南海地震生)地震津波でロシア艦隊旗艦ディアナ号が大破

代官屋敷玄関 多事多難の際、様々な報告がもたらされたことでしょう

12月 ディアナ号修理のため下田から西伊豆の戸田(へだ)港に向う途中に沈没

同月 プチャーチン帰国のために洋式船の新造を決め幕府に同意を取り付ける。新船建造の日本側の責任者として、江川英龍川路聖謨が任命される

安政二年(1854)

1月 江川英龍江戸屋敷にて病死

韮山反射炉の完成は安政四年(1857)竣工ですので、英龍は完成した反射炉を見ることはできませんでした。

完成を見ずに英龍は志半ばでこの世を去ります

先に結論から入ってしまいましたが、次回以降はこの年表の流れに沿って英龍の晩年をご紹介していきます。

 

 

反SYAROってなんJARO2

反射炉は鉄を溶かす施設ですが、それだけでは大砲を作ることができません。鋳型に鉄を流し込んで冷却し、砲身の外形を作りますが、これだけでは凹凸のある鉄柱にしか過ぎません。弾を撃ち出せるよう内部を空洞にしなければならないわけです。(砲腔:ほうこう をあける、といいます)
この作業(巣中鑽開:すちゅうさんかい、と呼ぶようです)は何種類もの錐(きり)を使って行いますが、人力で行うことができるようなものではありません。また、蒸気機関もないことから、動力源として水力を利用することが必須でした。

反射炉だけでは大砲はできず、周辺施設も必要でした

また、反射炉内の温度は1500℃以上にも達するため、それに耐えるため煉瓦(耐火煉瓦)を焼き、それを積み上げて築造します。佐賀藩の築地反射炉の場合、有田焼の職人の技法が活用されたようです。また、藩内からも煉瓦の原料となる土が産出し利用されました。

炉にあたる部分 煉瓦が積み上げられているのがよくわかります

英龍が築造を計画する伊豆半島においては、天城山中の梨本という地に陶器窯があり、これが煉瓦製造に使えそうだとの目算が立ちました。更には水車が利用できる場所も必要であったことから、その条件を満たし、かつ下田港に近い(材料の搬入と完成した大砲の運搬に便利)場所として賀茂郡本郷村(現在 下田市高馬)を候補地に選定します。実際に嘉永六年(1853)12月には基礎工事に取り掛かっていました。しかし、翌年嘉永七年=安政元年(1854)の3月、本格的な築造にとりかかろうとしたところで事件が発生します。ペリー艦隊が下田に入港した際、水兵がこの建設地内に侵入(悪気はなかったかも知れませんが)したのでした。
反射炉の築造と大砲の製造は重要な軍事機密であり、この場所ではその機密が漏れてしまうことを怖れ、急遽新たな建設地となったの韮山代官所にも近い田方郡中村字鳴滝(現在 伊豆の国市中)、すなわち現在の反射炉のある場所です。

この年の4月に下田の地から鳴滝の地への移転願いを提出後、着工に入ります。ここから本格的な築造が始まっていくのですが・・。

残酷なことに英龍に残された時間は僅かでした。次回から、彼の最晩年と反射炉の完成までをご紹介します。

反SYAROってなんJARO

ちょうど3年くらい前に、日本テレビの「鉄腕ダッシュ」の中のコーナで反射炉を作るという企画がありました。そこで紹介されていた日本の反射炉が、「韮山反射炉」です。確か2年半かけて作ったという話でしたが、改めて番組HPで確認すると、およそ2年半、880日に及ぶ作業を経て、約4万枚のレンガを積み上げて築造した、とありました。
反射炉の「反射」は、銑鉄を溶かす部分の「炉」の天井部分をドームのように湾曲させ、中の熱を天井で反射させて1500度以上を出すように工夫されているものです。

反射炉の構造 高く伸びるのは煙突部分ですが、「反射部分」は炉体部にあります

反射炉による大砲鋳造方法は、約二十年前の天保年間の初め頃からオランダより伝わっていたようです。(高島秋帆が技術書を輸入したともされています)
すでに英龍は反射炉の研究自体は始めており、嘉永二年(1849)には小型の実験用のものを江戸の邸宅内に作っていましたが、日本での実用化は、嘉永三年(1850)に佐賀藩が完成させた「築反射炉」が最初です。
佐賀藩は長崎との位置関係から、福岡藩とともに長崎警備を担当しており、当時のアジアを取り巻く状況からも海防の必要性を強く感じていました。
佐賀藩鍋島直正は、幕府に海防の必要性を献策しますが、当初却下され、独自に海防強化策を実施することになります。その海防策とは、長崎近海に台場を築き、そこに鉄製大砲を備え付けるというもので、そのために反射炉の建設が必要になりました。

鋳鉄製カノン砲模型(韮山反射炉

その際、「韮山塾」にも協力を要請し、英龍も積極的に協力し、反射炉完成の翌年には鉄製大砲の鋳造を行いました。(もっとも試射の結果この大砲は破裂してしまい、成功して軌道に乗るにはさらに一年を費やしています)
嘉永六年(1853)のペリー来航後、英龍は手代を佐賀藩に派遣反射炉での大砲鋳造を見学させています。その上で幕府に対して「下田のあたりで大砲を製造し、これを台場に据え付けたい」と建議し、建築費の見積もりを提出しています。

これにより、伊豆の地に反射炉を造る計画が始まりましたが、当初の予定地は韮山ではありませんでした。次回も反射炉建築の話が続きます。

台場だったの魂宿し~レインボーブリッジの傍で4

街歩きにスマホgoogle mapで経路を調べることがあると思いますが、「大江戸今昔めぐり」というアプリを使うと、江戸時代の地図と現代の地図を重ねて見ることができ、散歩に楽しみが増します。

御殿山下台場跡の紹介にあたっては、今の品川の地図では想像もつきませんが、このアプリで当時の地図を重ねると理解できるので、ここでは付近のスクリーンショットを示しながらご説明します。

「大江戸今昔めぐり」画面 北品川駅から御殿山下台場近辺の古地図

北品川駅から南側は、京浜急行本線の線路の東側に旧東海道が通っていますが、その東側の八ツ山通り以西は海で、利田新田の先に陸続きで五角形のようなでっぱりが造られていますが、これが御殿山下台場のあった場所で、現在では周囲が全く埋め立てられてしまっていることがわかります。

この台場の跡地は現在小学校と幼稚園になっていて、その名も「台場小学校」「台場幼稚園」。小学校の入口に台場跡を示すモニュメントが遺されています。

台場小学校正門前にあるモニュメント

「砲台」でなく「灯台」が立っているので、最初の印象は???ですが、ちゃんと説明が書かれていました。

台場の跡は、土台の石垣でした

灯台は明治になってから第二台場に造られた品川灯台の模型で、土台として築かれた石垣が台場跡にあたります。ちなみにこの石垣は伊豆半島の真鶴石が使用されています。

台場には当然のことながら大砲が備え付けられますが、台場築造開始と同じ年の嘉永六年(1853)に、湯島に湯島馬場大砲鋳立場が設けられ、鋳造にあたりました。が、ここで製造された大砲は青銅製の旧式のもので、飛距離も十分ではありません。

この時期の日本には、最新式の鉄製の大砲を作る技術がなかったからです。日本においては、鉄の鋳物や刀剣を作る技術は進んでいましたが、溶かした鉄(銑鉄:せんてつ)は不純物が多くもろいため、そのまま大砲にすると強度が足りず、砲身が破裂してしまいます。大砲を製造するためには、銑鉄から不純物を減らすため、さらに高温で融解させる「反射炉」が必要でした。

ここから英龍は「反射炉」の建造に取り掛かることになります。その話は次回以降に。

台場だったの魂宿し~レインボーブリッジの傍で3

お台場公園(第三台場)の砲台跡近くにでは面白い試みがありました。

砲台跡に大砲を合成して写真が撮影(スクショ)できます

看板に掲載されたQRコードを読み込ませて、砲台に画面を合わせることでARで復元した大砲が表示されるというものです。

実際、台場公園は殺風景な広場という感じなので、子供を連れて行っても、歴史好きでもない限りそれほど楽しい場所とはいえませんが、こうした再現映像や解説ナレーションなどの工夫があれば、もっと身近に興味を持ってみてもらえるのかもしれません。

話は台場築造の時期に戻ります。設計にあたって英龍は西洋式の築造技術を接触的に取り入れるため、木製の模型を作っています。

T実際の台場築造前に作成された木造模型(江川邸内展示)

模型は西洋の築城書と同じように作られたこの模型は実際に築造された台場の形と比較すると、中央部分の五角形はほぼ同じですが、左右に張り出した翼のような部分は造られていません。翼部分まで造るには時間も費用も足りなかったのでしょうか。

今のような埋め立て技術がない時代、海中に松の丸太の杭を打ち込んで、縄で繋ぎ、海底から水上までを石・砂利で土台を築いた後、更にその上に石垣を組み上げています。

第三台場の石垣

松の丸太がこうした場所に使われるのは、松脂が水滴をはじくことから水に強いことからですが、台場築造のために、関東一円から松・杉・その他雑木の調達が行われています。また、石垣については英龍の支配地である伊豆などから石材を集めています。

前回、一~三番、四・五番と、別途品川御殿下に建設した台場の六基のみ完成したことと、現在の湾内には三・六番の台場のみが残され、第三台場が公園となって残されていることをご紹介しました。

第六台場(レインボーブリッジより)

元々、それぞれの台場は全て人工島のようになっていましたが、第三台場のみ陸続きとして自由に出入りできるのに対し、第六台場は現在も島となっていて上陸も禁止されています。

もうひとつ、跡が残された台場が、北品川から歩いて10分弱のところにある品川御殿山下台場跡ですが、こちらについては次回に。

台場だったの魂宿し~レインボーブリッジの傍で2

当初の予定を大きく縮小して終了した台場築造ですが、ペリー艦隊は品川沖まで接近したところで、この砲台を見た後に六浦藩小柴村沖(現在の金沢区八景島周辺)まで戻っていますので、台場築造が一定の心理的影響をペリーに与えることができたのではないかと思われます。

第三台場から望む第六台場 右端にレインボーブリッジが映っています

最終的に幕府は当時寒村であった横浜村に応接所を設け、その地で嘉永七(1854)年三月三日日米和親条約が締結されることとなりました。

結局この砲台は一度も火を噴くことなく、日本は開国することになりましたが、それぞれの台場には、各藩の人員が配置されました。

当初配置(その後配置の変遷あり)されたのは

第一台場 川越藩(川越松平家 十七万石)

第二台場 会津藩会津松平家 二十三万石)

第三台場 忍藩(奥平松平家 十万石)

第五台場 庄内藩(酒井家 十四万石)

第六台場 松代藩(真田家 十万石)

御殿山下台場 鳥取藩(池田家 三十二万五千石)

で、川越・会津・忍の三藩は「松平」の名からわかるように徳川家の一族である親藩、酒井家は三河時代から徳川家家臣であった譜代です。徳川家との関係の深さで何となくわかりますが、真田家と池田家は外様大名で任命されています。

とはいっても、当時の松代藩主、真田幸教(ゆきのり)先代藩主で祖父の幸貫(ゆきつら)は寛政の改革で知られた老中、松平定信の実子であるとともに、老中をも務めた人物で、形式的には外様でも幕府とは近しい間柄にあたります。ちなみに韮山塾の最初の門人、佐久間象山はこの松代藩藩士です。

一方池田藩主、池田慶徳(いけだ よしのり)も、「烈公」の名で尊王攘夷思想の主導者であった水戸藩徳川斉昭(なりあき)の実子から養子に入っており、こちらも幕府に近い血縁がありました。

こうして、各台場に各藩の人員が配置されると大砲だけでなく、火薬庫や陣屋なども配備されました。

第三台場 砲台跡  当初忍藩が担当しました

第三台場 火薬庫跡

次回も品川台場の話が続きます。