おっさんの街歩き(忠敬に憧れて)

首都圏周辺の見て歩きや気になった本やドラマなどについて語ります

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反射炉は鉄を溶かす施設ですが、それだけでは大砲を作ることができません。鋳型に鉄を流し込んで冷却し、砲身の外形を作りますが、これだけでは凹凸のある鉄柱にしか過ぎません。弾を撃ち出せるよう内部を空洞にしなければならないわけです。(砲腔:ほうこう をあける、といいます)
この作業(巣中鑽開:すちゅうさんかい、と呼ぶようです)は何種類もの錐(きり)を使って行いますが、人力で行うことができるようなものではありません。また、蒸気機関もないことから、動力源として水力を利用することが必須でした。

反射炉だけでは大砲はできず、周辺施設も必要でした

また、反射炉内の温度は1500℃以上にも達するため、それに耐えるため煉瓦(耐火煉瓦)を焼き、それを積み上げて築造します。佐賀藩の築地反射炉の場合、有田焼の職人の技法が活用されたようです。また、藩内からも煉瓦の原料となる土が産出し利用されました。

炉にあたる部分 煉瓦が積み上げられているのがよくわかります

英龍が築造を計画する伊豆半島においては、天城山中の梨本という地に陶器窯があり、これが煉瓦製造に使えそうだとの目算が立ちました。更には水車が利用できる場所も必要であったことから、その条件を満たし、かつ下田港に近い(材料の搬入と完成した大砲の運搬に便利)場所として賀茂郡本郷村(現在 下田市高馬)を候補地に選定します。実際に嘉永六年(1853)12月には基礎工事に取り掛かっていました。しかし、翌年嘉永七年=安政元年(1854)の3月、本格的な築造にとりかかろうとしたところで事件が発生します。ペリー艦隊が下田に入港した際、水兵がこの建設地内に侵入(悪気はなかったかも知れませんが)したのでした。
反射炉の築造と大砲の製造は重要な軍事機密であり、この場所ではその機密が漏れてしまうことを怖れ、急遽新たな建設地となったの韮山代官所にも近い田方郡中村字鳴滝(現在 伊豆の国市中)、すなわち現在の反射炉のある場所です。

この年の4月に下田の地から鳴滝の地への移転願いを提出後、着工に入ります。ここから本格的な築造が始まっていくのですが・・。

残酷なことに英龍に残された時間は僅かでした。次回から、彼の最晩年と反射炉の完成までをご紹介します。