この前後の江川英龍と日本を取り巻く状況は目まぐるしく、それに振り回された多忙な日々が続いています。先にあらすじを書くようですが、何が何だかわからなくなる(書く方も)ので、先に年表形式で時系列に並べます。
嘉永六年(1853)
7月 プチャーチン(ロシア)艦隊長崎に来航
8月 品川お台場砲台着工
11月 幕府ジョン万次郎を登用、その後英龍の配下に加えられる
12月 プチャーチン長崎再来航
同月 下田の地に反射炉を築く基礎工事開始
1月 ペリー浦賀に再来航
3月 日米和親条約締結
同月 下田の反射炉建設敷地内に米国水兵侵入
4月 品川お台場砲台完成(第一〜第三台場)
6月 ペリー下田から退去
8月 プチャーチン箱館来航→拒否され大阪へ→下田に回航するよう
10月 プチャーチン下田来航
同月 品川お台場砲台築造完了(当初計画縮小し残りの台場完成)
11月 4日安政東海地震発生 駿河·伊豆地方に甚大な被害が発生(32時間後に安政南海地震発
12月 ディアナ号修理のため下田
同月 プチャーチン帰国のために洋式船の新造を決め幕府に同意を取り付ける。新船建造の日本側の責任者として、江川英龍・川路聖謨が任命される
安政二年(1854)
韮山反射炉の完成は安政四年(1857)竣工ですので、英龍は完成した反射炉を見ることはできませんでした。
先に結論から入ってしまいましたが、次回以降はこの年表の流れに沿って英龍の晩年をご紹介していきます。