赤城神社や光明院の前の通りは「天晴(あっぱれ)通り」と呼ばれています。更に北に行くと「万上(まんじょう)通り」となるのですが、これは流山が生んだ白みりんの二大ブランドの名前が付けられたものです。(マンジョウみりんは今でもキッコーマンの本みりんブランドですね)
光明院の北側には、公園というか広場があって説明板が立てられています。
今ではすっかり調味料として使用されるみりんですが、江戸時代は普通にアルコール飲料として愛用されており、特に女性などに人気のあった飲み物でした。
「青菜」という落語には「柳陰」という、焼酎とみりんを混ぜて冷やしたお酒がでてきますが、上方では「柳陰」江戸では「本直し」「直し」といわれるカクテルとして親しまれていました。
白みりん以前のみりんはもっと色の濃いものだったようですが、ここ流山の地で色の薄いみりんが生み出され、全国に広まったとのこと。
この地でみりんの醸造が盛んになったのは、上方で清酒の醸造が発展し、米の生産が増え、灘や伊丹の「下り酒」が大量に江戸に流れ込み、品質で追いつかず圧迫されたことで、別の道を見出したことによります。秋元家は五代目三左衛門、つまり双樹の代で更に財を成しました。
一方、小林一茶は北信濃柏原の生まれ。15歳のころに江戸に奉公に出て、25歳くらいから俳諧師として名前を知られ始めます。40歳になったころから、房総方面への俳諧行脚が始まり、俳諧をたしなむ富裕層への俳諧の指導などを通じて生活を維持するようになります。その中でも最も仲の良かった友人かつ庇護者が双樹でした。
次回から、一茶が寄寓した秋元家を今に遺す、「一茶双樹記念館」をご紹介します。