エピソード3 流山へ
この間、3月14日に西郷隆盛・勝海舟の会談が行われ、15日に予定されていた江戸城総攻撃は中止されています。
綾瀬で隊士を集めた大久保・内藤(近藤・土方ですね)は、会津を目指そうとしていました。元々新選組は会津藩のお預かりでしたから、江戸で戦いを続けるより、会津で再起を図ろうというのは自然な成り行きだったと思われます。
4月1日、2日に流山に到着。隊士たちは光明院と流山寺に分宿します。
大久保大和(近藤)はこれより北、閻魔堂(山は流れて・・7で紹介)のそばにある味噌屋を借り、そこを本陣としました。
甲州を制した新政府軍はどうしていたかというと、すでに3月中旬には板橋宿に入り、会津・桑名勢が占拠を目論んでた宇都宮城に向かって日光街道を北上中でした。新選組が流山に入った日には、粕壁(=春日部ですね)に至っています。街道は異なるものの、進軍ペースはこちらの方が速く、流山は南東(南南東)20数キロの地点です。
流山に集結した新選組が自分たちの背後を襲撃するとの情報を入手した新政府軍は、偵察隊を流山に送ります。4月3日のことでした。
この項、次回に続きます。