「一茶双樹記念館」は、商家を再現した「秋元本家」と、秋元家の書院を解体復元した「双樹亭」および茶会や句会などに利用されることもある「一茶庵」、そこから眺められる枯山水の庭で構成されています。
入口から秋元本家に入ると、目に入るのが「天晴」の大びん。(5升くらい入りそうです)当時商家で使われていた調度などの他、房総での一茶の足取りや句の色紙などを紹介しています。(二階は写真撮影不可です)
本家の建物を抜け、石畳に沿って「双樹亭」「一茶庵」の建物に入ります。
縁側からお庭を眺めると実に落ち着いた気分になります。新緑の時期も緑が映えていいですが、紅葉の時期はもっと見ごたえがありそうです。
当時の秋元家の財力や文化程度がいかに高かったかが偲ばれますが、一茶もこの地で句会を催しながら寄寓するのもさぞかし快い時間を過ごしたことでしょう。
庭園の傍らに句碑がありまう。
文化元年(1804)9月に、大雨で洪水に見舞われた流山の地で詠まれました。日中に荒れ狂った大雨が、夕方には空に月が出るほどにおさまり、洪水で生き残ったきりぎりすの鳴き声が聞こえる・・・
自然への無力を唄ったとも思えますし、災害の後でも残った者がまた生命の営みを始めるという生命力をうたったようにも思えます。一茶41歳の時の句です。
交友を深めた二人ですが、8年後、双樹は亡くなってしまいます。
泣く烏 こんな時雨の あらん迚(とて)
翌年とその次の年、一茶は流山で双樹の墓参りをしていますが、それが流山をお音連れた最後になりました。父親の遺産相続の争いを終え、信濃柏原に拠点を移しつつあった一茶にとって、この時期江戸周辺での庇護者や知り合いがこの世を去ったり、居を移したりしていなくなってしまったことが原因と思われます。
これがまあ つひの栖(すみか)か 雪五尺
生まれ故郷から流れて江戸に出た一茶は、その周辺で知己を見つけた後、また生まれ故郷に戻っていったのでした。
一茶と双樹の話は以上ですが、流山の話、いましばらく続きます。