おっさんの街歩き(忠敬に憧れて)

首都圏周辺の見て歩きや気になった本やドラマなどについて語ります

感嘆の桜2

昭和三十七年(1962)6月の除幕式には、荘川桜の移植成功(活着)は明らかで、春には残された枝や新たに生えた枝から花をつけはするものの、往時の勢いを取り戻すには小枝が大きな枝となるまでの歳月を待たねばなりません。除幕式に参列した人々は、その日を待ちわびたことでしょう。

しかし、重なった歳月は待つ人たちをも老いさせます。移植された桜の和歌を詠んだ元電源開発総裁の高碕達之助は約2年後の昭和三十九年(1964)2月24日に腹膜炎でこの世を去りました。

「高碕記念館」に置かれた高碕達之助の胸像

79歳でしたが、前日には生まれ故郷の高槻市名誉市民表彰を受けていましたから、突然に亡くなられたのでしょう。また長年自宅で飼っていたゾウガメが亡くなったのも死の前日のことでした。そのことから、近親の人たちからは「カメの背に乗って竜宮城に旅立った」と語り継がれているそうです。

荘川桜の事はずっと気にかけておられたようで、笹部さんに「桜の名前を取り決めておきたい」という内容の手紙を出しており、これが絶筆となりました。

移植作業を引き受けた丹羽政光さんも、翌年昭和四十年(1965)にに57年の生涯を閉じました。工事のさなかに患った腸のポリープが悪化して癌になっていたのです。

この年の5月、村がダムの底に沈んで10年が経ちました。2本の老桜は枝を伸ばし、元のように花を咲かせました。県内外から「ふるさと友の会」の結成を機に集まった元村民達は、満開の桜の下、笑顔で語り合います。そこに二人の姿はありませんでしたが、もう一人の立役者、笹部さんがその姿を見届けました。

笹部さんはその後も桜の育成に生涯を捧げ、昭和五十三年(1978)91歳で天寿を全うされました。

現在も生き続ける2本の桜

三人が世の嘲笑を浴びながら守った荘川桜は今も生き続け、樹齢は500年にも達します。GWともなると、御母衣ダムにはこの桜を見に毎年5万人もの観光客が訪れる観光名所となりました。

さらには、平成十四年(2002)以降、この桜の実から育てた桜を全国に植樹する試みが行われました。区切りとなる100ヶ所目の植樹が行われたのは、高碕記念館のある雲雀丘の「山手中央公園」でした。

雲雀丘山手中央公園(どれが荘川桜二世かわからず・・)

荘川桜は年によって花の咲き具合が異なるようで、満開になったり、一割くらいしか花が咲かなかったりするそうです。今年はどうでしょうか。多くの観光客がこの桜を見に訪れることでしょう。

荘川桜については以上ですが、次回からもまだ桜の話を。今年は水上勉の「櫻守」の舞台となった地をいくつか回ったので、作品の文章と共に写真を交えて紹介したいと思います。