おっさんの街歩き(忠敬に憧れて)

首都圏周辺の見て歩きや気になった本やドラマなどについて語ります

感嘆の桜

工事が終わって、一同はほっとしたものの、手術と同じで成功したかどうかは年を重ねてみないとわかりません。ダムの底に沈む予定の桜が移植されたというニュースは、荘川村から移転した元村民の人たちにも伝わっていました。が、その反応は冷ややかなものだったといいます。

「あんなふうにして移植しても、桜は死んでしまう。(中略)がんじがらめにして道路から見えるところで殺すなんて、可哀想なこっちゃ。(中略)念仏唱えて往生させてやったほうがよかった。」

元村民たちにしてみれば、ほとんど幹ばかりとなり、筵で巻かれた日本の桜の姿に衝撃をうけたのでしょう。笹部さんはその反応について次のように書き残しています。

「移植の結果はともあれ、私のささやかな心を、地元の人ばかりはいくらか買ってくれるものとばかり、ひそかに自惚れていた私の受け取ったものは、ただ、沈黙と嘲罵(ちょうば)の二つだけであった」(桜男行状)

元村民からも、また研究者たちからも非難を受ける立場だった笹部さんや丹羽さん、そして高碕元総裁。冬を越え、春に兆しが訪れるのをじっと待つ日々が続きました。

昭和三十六年(1961)5月。飛騨地方の遅い春。丹羽さんは移植の際に残した小枝の先に小さいながらも白い花がついているのを見つけます。

小枝の先に花がついていました

その知らせに笹部さんを初め、移植に関わった人々はほっと胸をなでおろします。一方昨年11月から貯水を始めた御母衣ダムの水位も、半年を経て満水となり、荘川の村は水底に沈みました。村民と桜二本を残して。

翌昭和三十七年(1962)6月12日、水没記念碑除幕式が執り行われ、藤井総裁、高碕元総裁、笹部さん、丹羽さんと、移住した旧村民500名が参列しました。

除幕式当時の荘川桜 枝からだいぶ葉がでているのがわかります

二本の桜の下に記念碑が建てられたのです。記念碑には高碕総裁と国文学者、佐々木信綱さんの詠んだ歌が刻まれました。

ふるさとは 湖底となりつ うつし来し この老桜 咲けとこしへに

(高碕 達之助)

すすみゆく 御代のしるしと うもれても 荘白川の 名をとこしへに

(佐々木 信綱)

水没記念碑(歌碑)

次回、桜のその後の話です。