落語の祖先といえるものは、戦国時代に武将が抱えた「御伽衆」(おとぎしゅう)にあると言われています。先祖代々の戦での功績や書物や諸国の見聞についての講釈をさせるために話し相手となる側近をそう呼んでいます。有名なところでは、豊臣秀吉に仕えた曽呂利新左衛門などがいますが、秀吉はそうした御伽衆を800人も抱えていて、その中には足利義昭や織田有楽斎などもいました。
秀吉は読み書きが苦手で、耳学問で見聞を深めるため御伽衆を大勢抱えていたようですが、それはさておき、御伽衆は合戦の合間、夜襲に供える際、手持無沙汰な将兵に夜話を聴かせる役割も果たしていました。その中には滑稽な話で笑わせたりすることもあったことでしょう。
こうした御伽衆のひとり、安楽庵策伝は、諸家に招かれたり、説教の一環として笑話を人前で演じたりしていました。元和九年(1623)に笑話集「醒睡笑」をまとめます。
人前での笑い話の実演や、笑話集を後世に伝えたことから、安楽庵策伝は「落語の初祖」と言われています。
落語の祖ではあるものの、落語家の祖と言われる人物は、ちょうど同じ時期に京都・大阪・江戸に出現しています。「醒睡笑」が著されてから約50年後のことです。
京の都では露の五郎兵衛が辻噺を演じて評判となりました。1680年代のことです。
大坂では、それに少し遅れ、生玉神社の境内で米沢彦八によって辻噺の興行が行われています。
神社の境内では多くの大道芸人で賑わっていましたが、彦八は人の足を止めて注目させるため、「当世仕方物真似(しかたものまね)」の看板を出しました。看板の物真似だけでなく、落ちに重点をおいた噺で人気を博しました。
生玉神社の境内には上方落語発祥の地、として石碑が建てられています。