おっさんの街歩き(忠敬に憧れて)

首都圏周辺の見て歩きや気になった本やドラマなどについて語ります

春は梅見ごこち4

話を道真左遷の宣命が発せられた時点に戻します。当時宇多上皇は、東寺で受戒を受け出家した後、仁和寺の開基となっていました。道真左遷を耳にした宇多上皇は、仁和寺から御所に向かい、内裏に参内し息子醍醐天皇に翻意を促そうとしました。

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宇多上皇法皇)開基の仁和寺 このあたりを御室(おむろ)といいます

しかし内裏の門は堅く閉ざされ、醍醐帝に会うことは叶わず、仁和寺に引き返すことになります。この時に内裏の門前で宇多上皇を阻んだのが藤原菅根でした。

その菅根が亡くなったのが延喜八年(908)の十月七日、落雷によるものでした。

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仁和寺中門 御室の桜は遅咲きの桜として知られています

道真左遷に関係した二人が亡くなり、左遷に直接かかわった藤原時平や醍醐帝の不安は募るばかりです。内裏の清涼殿に雷鳴が轟いた際に、雷神となって表れた道真に対し、時平は抜刀し、「生きてもわが次にこそものしたまひしか。今日、神となりたまへりとも、この世には、我に所置きたまふべし。いかでかさらではあるべきぞ。」(あなたが存命中でもあなたの最高位の右大臣にに対し、私は左大臣で私の次の位であったではないか。こんにち、貴方が神になったとしても、いまこの世では私に遠慮なさるべきではないか、どうしてそうせずにいられるであろうか、いや遠慮すべきだ)、と道真(雷神)を睨みつけて一喝しています。

しかしながら、最後には延喜九年(909)、時平は三十九歳で没します。一説には狂死したとも伝えられています。時平の死から四年後の延喜十三年(913)、時平の側につき、道真の後任として従二位のに就いた源光(みなもとのひかる)が鷹狩りの最中、泥沼に落ちたまま溺死し、遺体が見つからないという事件が発生します。