最初に、この回と次回以降で京都御所と北野天満宮の写真を載せていますが、手元には三十年以上前のフィルム写真しか残っておらず、大学時代の先輩と友人のご厚意で写真を提供していただきました。この場を借りて御礼申し上げます。
時平が亡くなる五年前の延喜四年(904)、醍醐天皇は、第二皇子である保明(やすあきら)親王を跡継ぎとして皇太子に立てました。親王の外戚は藤原氏で、年齢はわずか二歳です。しかし時平の死の十四年後の延喜二十三年(923)、父醍醐帝に先立ち親王は二十歳でこの世を去ってしまいます。
親王の薨去により、その第一皇子であった三歳の慶頼王(やすよりおう、時平の外孫にあたります)が皇太子に立てられます。その慶頼王も二年後の延長三年(925)に痢病により薨去してしまいます。保明親王、慶頼王の二人とも、時平と縁が深かったことから、これらの死も道真の祟りだと噂されました。
相次ぐ後継者の死に、醍醐天皇は道真を右大臣の職に戻し、正二位の位を贈る詔を発し、過去自身が出した道真追放の詔を廃棄しました。しかし、それでも台風・洪水・疫病といった災厄は収まることなく、延長八年(930)六月には内裏の清涼殿でこの年発生した干ばつについて、会議が行われているところに雷が落ちるという災害が発生します。
この落雷で、藤原清貫(ふじわらのきよつら)、平希世(たいらのまれよ)らといった時平と共に道真追放に関わったとされる要人が死亡した他、多くの死傷者が出る惨事となりました。
醍醐天皇自身は、この落雷の難は逃れたものの、心労からか体調を崩され、落雷の三か月後の九月に崩御。更に承平六年(936)には時平の長男、保忠も道真の怨霊におびえながらこの世を去ります。道真の死から二十七年の時が経っていました。
天慶五年(942)、道真の乳母をつとめていた多治比文子(たじひのあやこ)の枕元に道真が立ちます。このことが、学問の神様として全国に天満宮が祀られるきっかけの出来事となりました。