横綱山と鐘楼の間に、「報恩の碑」と刻まれた御影石の石碑が置かれています。表題には「軍配物語和讃」とあります。和讃とは、一般に仏・菩薩の教えやその功徳,あるいは高僧の行績をほめたたえる讃歌で仏教歌謡の一種です。ここでは仏様の功徳というよりは、大相撲にまつわる、あるエピソードを仏教歌謡化したものです。
石碑の末尾に平成元年五月二十七日建立開眼とあり、作詞・作曲者としてご住職の名前が記されています。
事務所に伺うと、この和讃の全文を記したものをいただくことができました。少しずつ、文字を追いながら、この「軍配物語」についてご紹介していきます。
昭和48年(1973)の大相撲秋場所十日目の満員御礼の中、大関の取組の際に、行事「式守伊三郎」の用いた軍配は、相撲の格でいえば、漆塗りの軍配を使用すべきところ、何故か、格に似合わない白木のままの軍配を使用しました。伊三郎はある恩に報いるため、あえて白木の軍配を用いたのです。
六代目木村宗四郎、ここで補足しないと話がわからなくなりますが、この方は昭和24年(1949)に宗四郎(実際には六代目ではなく三代目か?)を襲名し、三役格の行事を務められていました。「忍苦修行の~昇進のほまれ受けしも」とは、そのことを指します。
しかし、病魔に襲われ、土俵に立つことができなくなり、昭和34年(1959)に廃業、その後も闘病生活を続けますが、四年後の昭和38年(1963)に病癒えることなくこの世を去ったのでした。白木の軍配の話、続きます。