おっさんの街歩き(忠敬に憧れて)

首都圏周辺の見て歩きや気になった本やドラマなどについて語ります

蘭学こと(ば)始め4

明和八年(1771)三月四日、骨ヶ原(小塚原)の刑場で腑分けを見学し、その興奮冷めやらず、翌日からオランダ書「ターヘル・アナトミア」の翻訳に立ち向かっていく良沢らの前に、言葉の壁が立ちはだかります。なにしろ、良沢が理解しているオランダ語の単語は800余り、中川順庵はアルファベットをいくつか知っていても単語は知らず、玄白に至っては、翻訳開始時点ではアルファベットさえ知らない状態でした。

彼らの手元にあるのは、良沢が書き留めた単語と、彼が持っていた仏蘭辞書だけ。鉄砲洲にあった良沢の自宅でひとつひとつを解明しながら翻訳は進められました。

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地鉄砲洲にある「蘭学の泉はここに」の碑

その気の遠くなるような作業については、玄白の蘭学事始を初めとして、菊池寛の同名の作品や、吉村昭の「冬の鷹」、みなもと太郎風雲児たち」が題材としています。

だいたいの訳が出来上がるまで1年半を要しましたが、ここで解体新書の出版が行われたわけではありません。最初に出版されたのは、安永二年(1773)の正月に発行された「解体約図」という図版を中心としたダイジェスト版のようなものです。世間の反応を見るためだけでなく、幕府の反応を探る意味もありました。

この図版の絵師は、玄白や順庵と同じ若狭の熊谷儀克という絵師が描きましたが、原書の図と比較すると技術不足のせいか、物足りないものがありました。

次に発行する書物の図はもっと原書に近いものにしたい、その要望を叶えるため、一肌脱いだのが平賀源内でした。「解体新書」を巡る蘭学者たちの話が続きます。