おっさんの街歩き(忠敬に憧れて)

首都圏周辺の見て歩きや気になった本やドラマなどについて語ります

浅間浅間よ朝陽が登る3

天明3年(1783)7月5日の夜には、噴煙柱(ふんえんちゅう)と呼ばれる大量の火山灰や火山ガスを吹き上げた噴火を開始しました。この時、軽石が東南東の前橋や高崎方面へ厚く積りました。翌日には南東側の山麓村々の住民の中には逃げ出す者もいたとの記録があります。軽井沢村では4,50CMの石や砂が降り積もっていたとも。

7月7日の夕方から噴火はクライマックスに達し、大量の軽石や火山灰を東南東方向に降らせ、噴煙柱は高さ1万8000メートルにまで達しました。

噴煙柱は、マグマや火山ガスの噴出スピードが低下してくると、上に吹き上がる圧力も低下、柱を維持できなくなり、ガスと噴出物(溶岩)(が高速で山を流れ下る現象が発生します。これが「火砕流(かさいりゅう)」です。北北東および北北西方向に発生した火砕流は「吾妻火砕流」と呼ばれています。吾妻火砕流は、約10KM流れその先の森林を焼き尽くしました。

翌8日の午前10時ごろ、これまで以上の大爆発が発生します。爆発音が遠く京都、四国まで聞こえたといいますから、山麓では他の音は何も聞こえないほどの轟音だったことでしょう。

この爆発の後に発生した火砕流は、5月以降の爆発で積もっていた噴出物をも併せて北側に押し流しました。「鎌原火砕流(かんばらかさいりゅう)」とか「岩屑流れ」と呼ばれます。「鬼押出し」はこの最後に流出した溶岩流によって形成されたものです。

溶岩流がもたらした景観の鬼押出し 

巨大な流れは、山麓の大地をえぐり取りながら流下し、山麓の鎌原村を壊滅(人口570人のうち83.7%にあたる477人が死亡)させました。加えて、93軒の家屋が破壊され、馬は200頭のうち170頭が死亡、耕地の95%以上が荒廃する被害を受けました。

この時、約65KM離れた高崎では、次のような記録が残っています。

7日の朝には降り積もった降砂が屋根を覆い、屋根の上に置かれた石(風で屋根が吹き飛ばされるのを防ぐために置かれたもの)を隠すほどであった、といいます。午後1時ごろには空が真っ暗になり、雷鳴が轟きました。(噴火の爆音と聞き間違えたのではないかと思いますが)皆屋内に入りましたが、障子や襖は激しく振動しています。周囲が真っ暗なので人々は灯火を点け過ごしていましたが、そのうち障子の外が紅に染まり始めました。夜が明けたわけでなく、まだ夕刻だったといいます。

山麓の村に被害を与えた噴火ですが、その被害はそれだけではありませんでした。そのあたりのお話は次回以降に。