おっさんの街歩き(忠敬に憧れて)

首都圏周辺の見て歩きや気になった本やドラマなどについて語ります

礼賛と塩対応3

飢饉により大坂でも米不足が発生しました。天保7年(1836)秋ごろから大坂東町奉行跡部良弼は大坂の米を江戸に廻送することを命じます。この廻米は新将軍宣下の儀式費用を捻出するための施策でした。その米を集めるため、跡部は京都から大坂まで米を買い求める人々をも召し捕らえました。買い求めるとは、買い占めるような大口の買付ではなく、いまでいう5キロ、10キロくらいの小口の米を買い出しに来た人々です。京都では米が手に入らなくなり、餓死者で溢れます。

堂島米市場(大阪歴史博物館

京都から飢餓者が流入し、大坂の治安は悪化しました。大塩は跡部に対して大坂の蔵米を庶民に分け与え、豪商の買い占めを止めさせるなどの献策を行いましたが、聞き入れられることはありませんでした。

次に大塩が声をかけたのは大坂の豪商、鴻池家です。当主鴻池善右衛門(9代 幸実)に対し、「自分と門人たちの俸禄米を担保にして1万両を貸してほしい」と持ち掛けます。借りたお金で米を買い、困窮する庶民に分け与えようとしたのです。鴻池は跡部にその件を相談しますが、跡部が断るよう命じた、といいます。やむを得ず大塩は自身の蔵書をすべて売り払い、その資金を使って貧民救済に当たりました。

国内でもこの頃から「天保騒動」(甲斐国)、「加茂一機」(三河国)などの大規模な騒乱が発生していますが、大塩もこの時期あたりから決起することを心に決めたのでしょう、妻を離縁すると、養子の格之助や洗心洞の門弟たちに武装蜂起の計画を打ち明けました。そして2千字に及ぶ「檄文」を書きあげ、極秘のうちに印刷されています。

印刷には版木が必要で、職人にそれを彫らせないといけません。反乱を呼びかける「檄文」ですから、そのまま依頼すると計画がまるわかりになってしまいます。そのため檄文の原稿は32分割され、一つ一つの部分だけでは何が書かれているのかわからないように工夫がなされていました。(版木は乱の際に焼失)

大塩の乱の話が続きます。