おっさんの街歩き(忠敬に憧れて)

首都圏周辺の見て歩きや気になった本やドラマなどについて語ります

礼賛と塩対応2

大塩平八郎の乱」については、現在関西方面の街歩きで旧跡を巡っているところで、改めて詳しくご紹介する機会を設けようと思います。ここでは家斉~家慶の時代背景を交えながら、ざっとご紹介していきましょう。

この反乱は幕府直轄地、「天下の台所」である大坂で起こりました。しかも首謀者は大阪東町奉行の元与力、つまり幕府の元役人です、このことは幕府や大名だけでなく庶民にまで大きな衝撃を与えました。

大坂で起こった反乱 全国に衝撃を与えました

大塩は大坂東町奉行所の与力として、汚職を嫌い仲間内の不正を暴くなど、清廉潔白な官吏として活躍していました。ちなみに江戸が北町・南町奉行所であったのに対して、大坂は東町・西町奉行が月番制で職務を行ないます。大塩の上司にあたる東町奉行の高井実徳(たかい さねのり)は彼を重用するものの、文政十三年(1830)に高齢と健康面の問題から奉行職を辞します。

10年間良い上司に恵まれた大塩ですが、このタイミングで自身も与力の職を辞し、養子の格之介に跡目を譲りました。すでに自宅に「洗心洞」という私塾を開いて、陽明学を説いていましたが、隠居後は学業に専念し、この地で子弟の指導を行っています。

大塩の「洗心洞」跡(大阪市天満 造幣局宿舎内)

この乱の主原因に「天保の飢饉」がありますが、特にひどかったのが2回あり、最初が天保四年(1833)秋から翌年の夏まで、その次が同七年(1836)秋から翌年の秋までの飢饉でした。

前半の飢饉の時、すでに大塩は隠居の身でしたが、西奉行だった矢部定謙(やべ さだかね)が大塩の意見をよく要れ、矢部配下の財政専門家もその才を発揮して切り抜けることができました。しかし、後者の飢饉では矢部はすでに転任(勘定奉行に栄転しています)、その後任の東町奉行跡部良弼(あとべ よしすけ)は大阪の豪商が米の買い占めを行うのを傍観したばかりか、大坂を統治する者としては信じがたい暴政を行います。

この時期、将軍家斉は実子家慶に将軍の座を譲ることを公言していたのですが・・続きは次回に。