版木を32分割した、というだけではどういうことかわかり辛いので、最初の数行分ですが原文と版木に彫られた部分を比較してみます。
「四海こんき」【ういたし候ハゝ】《天祿ながく》『たゝん小人に』
「國家をおさ」【めしめば災】《害并至と昔》『の聖人深く』
「天下後世人の」【君人の臣たる】《者を御誡被》『置候ゆへ』
それぞれ「」、【】、《》、『』が4つに分けられたそれぞれの版木に彫られた部分です。上で紹介した一文を現代語に訳すと
四海(天下の民が)困窮しているならば、天の恵みも永く絶えるだろう 小人(器の小さな人物)に国家を治めさせたならば、災害は何度も起きるだろう というのは 昔の聖人が深く天下の後世に、人の君たるものと人の臣たるものに 戒めを与えたもので・・
となりますが、分割された版木の部分だけではまったく意味が通じないように分割されています。
2千字に及ぶ文末部分を現代訳でご紹介します。
今度の一挙は我が国の平将門、明智光秀、中国の劉裕(南朝宋の初代皇帝、東晋の恭帝より禅譲を受けるが、実情は簒奪)、朱全忠(五代後梁の初代皇帝、唐の哀帝より禅譲、同様に実情は簒奪)に類したものだと言う者が居るのも道理である。が、我ら一同心中に天下国家を奪い取ろうとの欲から事を起こしたのでは決してない。太陽や月、星の動きのように天の道理に基づき、昔の中国の湯王、武王、漢の高祖、明の太祖が民を吊い、君を誅殺し、天誅をおこなったように誠心から出たものに外ならない。 もし疑わしく思うならば、我等の所行の終わるまでを、汝ら眼を見開いてよく見よ。
この檄文が書かれた時期について事件の年表を調べたところ、天保七年(1836)の12月、つまり年末でした。蔵書を売り払ったのは翌年の2月上旬、決起の直前のことです。得た資金を大坂の窮民に配り(「替札:かえふだ」として指定の商家で一朱銀と交換できる札を配りました)、決起した時に参加するよう促しています。
ついに天保八年(1837)2月19日大塩は決起しました。次回もこの乱の話が続きます。