酒造業を成功させ、大坂に進出した鴻池新右衛門(新六)。諸説ありますが大坂城下の旧久宝寺町に店舗を開いたと伝わります。現在その跡を示すものは残っていませんが、町内に「銅座公園」が。このあたりに鋳銅や銅の取引を行う「銅座」があった名残でしょう。
大阪進出の時期が前回ご紹介したように元和五年(1619)のこと。この元和という時代は鴻池家だけでなく「元和偃武」の言葉で知られるように、日本史上でも大きな変革が起こった時期でした。
元和元年=慶長二十年(1615)に大坂夏の陣により豊臣家が滅亡、領主同士の争いが止み、武器を偃(ふ)せて武器庫に収めたことから「偃武」と呼ばれるようになりました。(江戸時代中期に儒学者によって創られた語との説が有力)さらに大阪進出と同じ年に、堺の商人が紀伊国(和歌山県)白浜富田浦から廻船(貨物船と考えるとわかりやすいでしょう)を借り、大坂から江戸へ多種多様な生活物資を運びました。また、同じ年に大坂の北浜の泉谷平右衛門が250石積の廻船を借り、同様に江戸に日用品を運んでいます。これが「菱垣廻船(ひがきかいせん)」の始まりです。
この項の最初に、酒を運ぶルートについて「伊丹から神崎(現在の尼崎市)までは陸路」「神崎からは川を舟で下り、大坂の伝法(でんぽう)、安治川口(あじがわぐち)という河口のあたりに集積されました。ここから船で江戸まで運ばれる」と書きましたが、これは菱垣廻船や、それ以降の樽廻船のルートができてからの話で、それまでは全部陸路をたどって江戸まで運んでいたのでした。この海上ルートができたおかげで、輸送量は大幅にアップし、伊丹の酒も海上輸送されるようになったのです。
鴻池家は、酒造業に留まらず、海運業にも進出していくのですが、その話は次回で。