鴻池家の始祖、新右衛門(新六)は子宝に恵まれ、8男2女をもうけました。発祥の地、伊丹の酒造業を継いだのが七男の元英(もとひで)で、これが本家に当たります。他の子どもたちも六男が出家したのを除いてあとは分家をたてたり、他家へ嫁や養子に入る等でそれぞれに自立しています。
長男:清直(きよなお)は、現在の宝塚市、阪急売布神社(めふじんじゃ)~清荒神(きよしこうじん)の線路南側のあたりの小浜(こはま)村に分家し、「小濱山中家」を名乗っています。
分家したのが慶長十九年(1614)で、大坂冬の陣の年といいますから、父新右衛門(新六)が大坂に進出するより5年も前の事。新兵衛と称し、この地で酒造業を営みました。
次男:秀成(ひでなり)父と同じ年に大坂和泉町に分家、そこで醸造業を営みました。善兵衛を名乗り、「山中善兵衛家」の初代当主となっています。
三男:之政(ゆきまさ)父の大阪進出に先立つ元和三年(1617)に大坂和泉町に分家したということは、上の秀成が分家の時には、すでに同じ町内にいたことになりますね。「鴻池又右エ門」を名乗り、彼も醸造業を営んでいます。寛文元年(1661)に兄弟・一族の協力を得て、山中・鴻池家の菩提寺となる「顕孝庵」(けんこうあん)を建立しました。
四男:政勝(まさかつ)伊丹鴻池村の北側にあった荒牧(あらまき)村に分家し、荒牧政勝・治郎右衞門を称しています。
五男:山中正代(まさよ?)寛永年間に大坂に分家、與右衞門を称しました。
六男:山中新太郎(しんたろう)黒田姓を名乗ったのち出家し僧侶となりました。
七男については冒頭で述べた通り、伊丹で本家を継ぎました。
八男:正成(まさしげ)父と同じ時期に大坂に出た時は、まだ10歳そこそこでした。寛永10年(1633)に20歳半ばで分家しています。
この八男が分家したのが北浜の近く「今池」で、彼が「今橋鴻池」の初代鴻池善右衛門を名乗り、この家が富豪の代表格となるのですが、その話は次回に。