おっさんの街歩き(忠敬に憧れて)

首都圏周辺の見て歩きや気になった本やドラマなどについて語ります

舟を呑む2

力士の優勝祝いなど宴会の席で「菰冠」(こもかぶり)と呼ばれる「菰(こも)」を巻いた樽を使います。この樽の蓋の部分を木槌で割って封を開け、桝などで皆で祝杯を挙げる姿は、いかにも日本の祝宴といった感じですね。

「菰」というのは稲わらで作った筵(むしろ)を言います。乞食のことを「おこもさん」「こもかぶり」などとも呼びますが、筵(むしろ)をかぶっている姿から由来しています。今では樽の装飾材のように使用されていますが、元々は酒を船で運ぶ際の「保護材」だったと考えられています。

菰を巻いた樽 左下が通常の樽(伊丹ミュージアム

陸路で馬の背に樽2つを振り分けて運んでいた時期は樽の大きさは2斗(20升=36リットル)樽が主流でした。二斗樽2つでも72Kg。馬はそれを大坂の河口まで運んでいったわけです。そのうちに伊丹を流れる猪名川をくだって酒を運べるようになると、効率化の面からも樽は大型化し、四斗樽(40升=72リットル)が主流になっていきます。

最初の頃はこうした樽のまま運ばれていたのでしょう(白鹿記念酒造博物館)

船が揺れて大きな樽同士がぶつかって壊れると、中の酒は台無し。ですからそうならないよう、今でいうプチプチ(エアーキャップシート、というのが正式名称らしいですが)のように樽を筵で巻いて保護したのが始まりだそう。

始めの頃は機能重視でただ保護だけのために巻いていましたが、それぞれの名称を表に出すだけでなく、デザインでも人目を引くように装飾化していきます。

さて、伊丹の酒が全国に流通するようになり、元和元年(1615)、鴻池新右衛門(新六)の次男、善兵衛秀成が大坂に居を移し醸造業を始めます。四年後の元和五年(1619)父の新右衛門も大阪に出て、鴻池家は大坂の街に軸足を移したのでした。この続きは次回で。