おっさんの街歩き(忠敬に憧れて)

首都圏周辺の見て歩きや気になった本やドラマなどについて語ります

浪花ともあれ 先立つものは銀2

秤量貨幣(しょうりょうかへい/ひょうりょうかへい、とも)は現在社会においては、公式に流通している国はありません。江戸時代の金貨といえば小判を思い浮かべますが、銀の場合貨幣といっても丁銀は小判のような整った形ではありません。

江戸時代の銀貨(大阪造幣博物館)

金貨でいう小判にあたるのが「丁銀」(ちょうぎん)ですが、元々棒状の銀塊を示す言葉だったようです。上の写真を見ても、小判ぽい楕円形のようではあるものの、整った感じではありません。その重さは43匁(約160.4g)が目安ではあるものの、30数匁~40数匁(120~180gくらい)と一つ一つがまちまちでした。

金貨・銀貨の交換にあたっては、重さの定まった小判に対して、一定の重さの銀を計測しなければいけません。そのため、重さの調整に使われるのが上の写真下方の「豆銀」でした。そしてその重さを正確に測るために「両替天秤」と分銅が用いられたのです。

両替天秤と分銅(造幣博物館)

現在こうした計量を行うことはまずなくなりましたが、「分銅」の形は銀行の地図記号としてその名残を残しています。

現在でも円貨から外貨の交換に手数料(スプレッド)が取られるように、江戸時代の両替商も1~2%の手数料を取りました。江戸の金が上方では通用しないため、廻船によって商品が売れればその分両替が必要となり、両替商には手数料が入ります。

また両替だけでなく、送金方法としての為替(手形)の発行や預金・貸付などの現在の銀行と同じような業務を行っていきます。

鴻池善右衛門(初代)は寛文10年(1670)には、幕府御用を務める「十人両替仲間」の一員となりました。仲間の一員となったことで、両替屋仲間の監督機関の役割を果たし、公金取扱という重要な役目を負っています。そしてこの時代から大名に対して融資を行う「大名貸し」を始め、大商人への階段を登っていくのですが、その話は次回以降で。